2024年8月7日水曜日

Ochame!


 

 

 

主はモーセに言われた。

「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。」

出エジプト記32-33

 

 

 

 

突っ込みどころ満載だった

パリ・オリンピックの開会式のあれこれも

もう昔話になってきて

もう懐メロになってきて

もう時代遅れネタになってきて

もうオワコンになってきてしまった

 

いくら突っ込みどころ満載だといっても

新ネタで600字から800字ぐらい書いて米を買う系の

時事ネタライターさんでもなければ

書いている暇の捻出にも四苦八苦するので

ちょっと書きたいなと思っているあいだに

オリンピックに限ったネタでさえ

「無課金おじさん」のような新ネタに世は移っていき

あれも書かなかったなあ

これも書かなかったなあと

はやくも8月7日の立秋を迎えるに到ってみれば

なんだか

 

なんにも書かなかったら
みんな書いたことになった

 

覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだった

 

夕陽に向って、
野原に立っていた。

 

まぶしくなると、
また歩み出した。

 

何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……

 

土手の柳を、
見て暮らせ、よだ

(一九三四・一二・二九)

 

 

と書いた中原中也の気分

よみがえり

きたり

けり

 

おお、すでにして

である

 

パリ・オリンピックの

例のぽわぽわお腹の青塗りおじさんは

ありゃ

なんだべさ?

ということで世界中が

ぎゃあぎゃあしたそうだが

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の下品なパクリだとか

キリスト教への冒涜だとか

古代ギリシアのディオニューソスやバッカスを出して来て

享楽主義肯定を謳ったのだとか

いくらでも解釈は出るわ出るわで際限なく

そうなってくると

都市伝説界隈系の知ったかぶりさんたちが

「じつはあれは…」系の解説を

ちこちこ

ちこちこ

Xなんかで出してくるようになり

一般大衆はもうそこまではつき合えなくなっていって

『新世紀エヴァンゲリオン』の終わり頃の

解釈に継ぐ解釈の迷宮に入り込んでいくようになっていくのだが

まあ結局それほどは

思わず収集しておきたくなるほどの

深くて鋭いマニアック解説界隈が流行らないで済んでしまったのも

夏の暑さのゆえか

それともむしろ

オリンピックの開会式のそもそものレベルの低さのせいか

 

だいたい

あの手の男子校の学芸会っぽいお座興は

ヨーロッパではお家芸で

どこの国でもつねにやっているのだが

フランスでのカーニバルの出し物のくだらなさとか

イギリスの学生たちのやらかすおふざけなどときたら

あんな甘いほんわかしたものではないので

あれまあ

今回は

ヨーロッパふう伝統的おふざけのやり方に

開会式をちょっと類似させたテイストにしてみて

遊んでみたわけね

で済んでしまう

おふざけと悪趣味とエロスと猥雑さとを混ぜ合わせて

超絶芸術の域に持って行ったフェリーニの映画のあれこれと比べれ

まったくロクでもない湿った花火でしかなかったね

となる

 

なにか言ってやるなら

「つまんなかったね」

「ショボいの」

「ダッせ」

などのひと言を投げてやれば

演出陣にはいちばんこたえるはず

なんせ連中は

褒められようと貶されようと

とにかく大ごとになるのがうれしいわけで

受けだけがほしいのだから

 

寛大なわたくしとしては

まあ

けっこう「おちゃめ」だったわね

LGBTQっぽい口調で

あいまいに評して

済ましておけばいいんじゃない?

という気がする

 

日本人の属性も一部保持しているわたくしの感じたところでは

あの腹ぽちゃ青塗りおじさんを中心とするシーンは

なんといっても日本の七福神の絵柄で

腹ぽちゃおじさんはどうしたって布袋さまだろう

と見えてならなかった

寿老人や毘沙門天には青い着物や鎧を着せる絵もあって

その青を布袋さまにおっかぶせてみたわけね

などと日本人はあの図柄を読み取ってしまう

うしろに坐っていたデブのネーチャンはどうしたって弁天様で

おやまあ

パリ・オリンピックだとかいっても

やっぱり日本文化に恋い焦がれているわけね

と全世界がジャパン・ファーストになってくれているのを

ちょっと恥ずかしくもうれしく思って

開会式のあの学芸会テイストの流れを見ていたのであった

 

やっぱり

けっこう「おちゃめ」だったわね

LGBTQっぽい口調で

言っておくのが

ふさわしい

 

この際

世界共通語にどうかしら?

「おちゃめ!」

Ochame!」

 

 

もちろん

ヒンドゥー教の主神クリシュナ神の化身であるわたくしであれば

おやおや

青塗りで出現することの多いクリシュナを開会式に登場させたのだ

とも思って

それはそれで嬉しかったのだが

いずれにしてもパリ・オリンピックが必死に反カトリックや

反ヨーロッパを提示しようとしているのは

文明みずからの自己超克の試みとして

まあ

なかなか頑張っておるわい

と微笑ましかった

 

それにしても

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を腐しているとかいう批判は

あまりに頂けない

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』はダ・ヴィンチの個人的妄想図柄であって

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』はキリスト教を承認も礼賛もしていないし

そもそも彼はボッティチェルリなどとともに

公式キリスト教には与しないオカルト神秘主義者であったはずで

となれば彼の『最後の晩餐』は非カトリック的であり

開会式にまつわる批判の道具に出してくるべき名ではない

 

だいたいダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に関わるぶつくさ話を言いたければ

ルイス・ブニュエルの『ヴィリディアナ』(1961)

最高の賛美とともに言及しなければいけないはずなのだが

わたくしの見たところ世界中でブニュエルに触れていた者はいなかった

ブニュエルの徹底したカトリック腐しを語らずに

なぁにがパリ・オリンピックの腹ぽちゃ青塗りおじさんか!

と失笑してしまう

 

ほら、

これがルイス・ブニュエルの『ヴィリディアナ』 の

最後の晩餐ぶっこわし場面だよ

これまで見ていなかったなぁんて

人間として生きてこなかったということになるんだけど

死ぬ前にちゃんと見ておきな!

Viridiana (Luis Buñuel, 1961)

https://www.youtube.com/watch?v=eUvOWWwrgn8

 

キリスト教をバカにしたとか言われて

パリ・オリンピックの開会式の演出家が殺害予告を受けたとか

どうとか

(これだってネタかもしれない)

(ただのOchame!かもしれない)

言っているが

ヨーロッパの植民地支配政策のお先棒を担いで

全世界で非道残虐のきわみを尽くしてきたキリスト教が

どの口で開会式の演出家を批判できるの?

って話

近ごろはイスラムやユダヤが残虐や激高や傲慢をもっぱら担っているが

あんたがた

十字軍の頃の振舞いや異端審問の頃の非道の罪を

とうに償ったなどと思っていたら

大間違いさ

 

 

ところで

ところで

 

どうでもいい学芸会レベルのパリ・オリンピックの開会式のなかで

ただひとつ

本当に

これだけは見逃してはならない

というものがあった

 

聖火の最終ランナー到着の場に

大きな金の雄牛の頭の像が

あたりまえのように据えられていたのだ






やや粗雑な言い方をすれば

(いわゆる都市伝説界隈や通俗オカルト界隈は

この次元の言い方の中を彷徨い続ける)

とりあえず

これはバアル神で

ヨーロッパでは誰もが知る悪魔信仰の対象であり

べつの視点から言えば

ユダヤの信仰の象徴でもある

つまり

雄牛の頭の像がはっきりと据えられていた開会式は

悪魔やユダヤに捧げられる祭典であることを明示していた

といえる

 

 

とはいえ

ヨーロッパでは

さまざまな場所で雄牛信仰が行なわれてきており

もともとGodに到る神さまざまな呼称の添え名はElで

「人類の父」とされたフェニキアの雄牛神のことだった

 

ヨーロッパ世界における雄牛神について

もう少し粗雑でない解釈に入っていこうとすると

無限に複雑化して

もう

もう

もう

際限がない……

 

 

雄牛神Elはセム族の聖なる雌牛Asherah(アシュラ)と結婚したが

これは

ギリシア神話で雄牛神ゼウスが

雌牛神のヘラやエウロペやイーソと交わるのに類似する

 

Elはイエス・キリストの時代でもセム族の父であり

死の前のイエスが十字架上から

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)

と叫んだのは

「エロイ」=「El」に対してであった

 

シリアでもクレタでもヒンズー世界でもペルシアでも

古代にあっては

あらゆる神々が雄牛に変身した

イスラエルの王たちに仕える予言者たちは

雄ウシの仮面を付けて王になり代わり

戦いに勝つためのまじないをしたし(『列王紀上』 22:11

『ダニエル書』 4: 30において

ネブカドネツァル王が

「彼は人間の社会から追放され、牛のように草を食ら」ったのも

聖なる生贄の雄牛への同化の意味があっただろう

 

『出エジプト記』で

モーセがシナイ山に上っている間に

民衆が祈るようになっていた金の子牛の話は有名だが

あれは

神が偶像崇拝を禁じていたのに

民衆が金の子牛を造って祈るようになってしまっていた

という話

 

モーセの頃までの人間は

雄牛神を信仰対象とすることに慣れていたのだから

この時の民衆の行為も「人間はこうしたものだろう」と考えれば

おおいに許容範囲内のことだったはずだが

モーセの神もモーセも厳しくて

これを許さなかった

偶像を通さずに直接に神を信じることを要求するのが

モーセの神であり

ここには直接性を神の本質とする新たな神概念の到来があった

人類におけるユダヤ教の本質的新味はここにある

この神はあらゆる表象も許さない強度な直接性の神であった

この神のありようの核心がイスラム教にまで継承されたことは貴重であるが

多くの図像や彫刻の制作を許した公式キリスト教において

偶像性や表象の否定と直接性の忘却が発生したことは堕落であった

ユダヤ教とイスラム教がキリスト教を原理的に許し得ないのは

この偶像性と表象性の認容の点においてである

 

モーセは

金の子牛の偶像など造って祈った民衆を

許さなかった

『出エジプト記』32-26から29には

こうある

 

「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」とモーセは言った。

レビの子らが全員彼のもとに集まると、

彼らに、

「イスラエルの神、主がこう言われる。

『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、

おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」

と命じた。

レビの子らは、モーゼの命じたとおりに行なった。

その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。

モーセは言った。

「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、

今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。

あなたたちは今日、祝福を受ける」

 

ここは非常に強度の忍耐強い読解が要求される箇所で

このような箇所を厖大に旧約聖書が含んでいるのだから

一生を旧約聖書読解に費やす人々が出るのも理解できる

旧約聖書のあらゆる箇所は

ユダヤ教を信仰するとか容認するとかいうこととは別の

きわめて知的な探究心のごく自然の発露をもたらす性質を帯びてお

ごく端的に言って人類に課せられた謎の必須読解の対象である

 

深く読解するための場所でない今回の詩形式記述においては

『出エジプト記』のこの箇所が

「おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺」すことからのみ

ユダヤ教が成立しうるという可能性を感じとっておくに留める

ユダヤ人が他民族に行なう殺戮も

「おのおの自分の兄弟、友、隣人」に行なっているものなのではないか?

歴史の中でユダヤ人に行なわれてきた迫害も虐殺も

これも「おのおの自分の兄弟、友、隣人」によるものだったのではないか?

人間は「おのおの自分の兄弟、友、隣人」のみを殺すのではないか?

「主の祭司職に任命され」るために?

「祝福」されるために?

 

ついでに書き添えておけば

「金の子牛」とも「若い雄牛」とも呼ばれる偶像の出来上がり過程も

けっして明解ではない

モーセに対してアロンは

 

わたしが彼らに、

「だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい」

と言うと、

彼らはわたしに差し出しました。

わたしがそれを火に投げ入れると、

この若い雄牛ができたのです。

 

と語っており

雄牛の像を造ったとは言っていない

まるで

火の中から自然に現われた

かのようにも

取れる

言い方をしている

 

モーセを待ちくたびれ

不安になった民衆が

雄牛の偶像を創り上げたと断言できるような記述は

旧約聖書にはない

という点に

よくよく注意し直しておかないといけない

そうなると

ここにはヤハウェと違う別の神霊の介入があった

と考えておくべきことにもなり

旧約聖書解釈と霊的人類史解釈は

まったく別の展開を待たねばならなくなる

 

もちろん

古代エジプトでは

救世主オシリス(ウシル)が

雄牛(アーピス・ウシル)の姿で崇拝されたことも

思い出しておくべきだろう

各地域の人間たちの罪を償うために

雄牛が毎年殺される儀式が行なわれたが

オシリスは再生の儀式のたびに

金の子牛として姿を現わした

アロンのもとで民衆が行なった金の子牛の祭儀は

エジプト流のものの真似か再現と見るのが順当だろう

「出エジプト」をしてきた民にはごく自然なことだっただろうが

モーゼはこのエジプト流の祭儀を切り捨てさせ

新たな神概念と信仰を強引に創ろうとした

そのためにモーゼが用いたのは

生贄の雄牛の血ではなく

人間の「おのおの自分の兄弟、友、隣人」の血であり

それを使った祭儀であった

ユダヤ教は人間という種の中で人間を生贄とし

人間の血を用いる祭儀を創出しようとするものであった

と言えるかもしれない

 

さらには

人間は人間の血を流すことでのみ

社会秩序と制度を刷新できる

という

どうしようもない過酷な真理がある

革命では血を流さねばならない

フランス革命のマリー・アントワネットの首から滴る血

ルイ16世の首から滴る血

革命を終えるのに必要だったのは

ロベスピエールの首から滴る血

サン=ジュストの首から滴る血

みなさん

今の社会や世界に

もう

うんざりなんでしょう?

もう変えないといけないと思っているでしょう?

それじゃあ

だれの首から滴る血?

そういう具体的現実的問題に

直面しているのよ、みなさん?

血!

血!

血!

もう堪えられないでしょ?

血を見ないでは?

もう始まっちゃうでしょ?

血を流すのが!

血を滴らすのが!

血!

血!

血!

 

 

さて

雄牛崇拝を核心に置いたミトラ教では

雄牛の血は

雌牛の助けを借りずに万物を創造する力があるものと

信じられていた

雄牛の血に月の力が作用して呪術が発動する

と考えるところから

ペルシアでは

月の女神アナヒーターに雄牛は捧げられる

これはギリシアに渡って

「雄牛殺戮者」という意味のアルテミス・タウロポスとなり

雄牛を殺す救世主ミトラ神は

これを男性化したものだった

 

ギリシア神話関連で言えば

運命の三人の女神モイラたちのまつわる伝承では

人間は生贄の雄牛に喩えられた

遅かれはやかれ

運命の手にかかって

雄牛のように生贄にされるものとして

人間は捉えられていた

ヨーロッパ中世の迷信では

運命の女神は夜の精モーラMoraと呼ばれ

世界をさまよって人間を捕らえては

雄牛のように叫ぶまで

苛んだという

 

 

今回のパリのオリンピックの開会式の

あの腹ぽちゃの青塗りおじさんを

キリスト教と関係のないディオニューソスだとか

ローマ神話での読み方のバッカスだとか

呼ぶ意見もあったが

ディオニュ-ソスを神とするオルペウス教では

ディオニューソスに雄牛の姿を与えていた

オルペウス教の祈りの定型文句には

「雄牛は蛇の父親であり、蛇は雄牛の父親である」

というものがあるが

これはディオニューソスが

地上では雄牛の姿をしていて

冥界では蛇の姿をしているところから来る

ディオニューソスのことをエジプトではオシリスと同一視したが

オシリスはもちろん冥界の神である

ディオニュソースはくり返し新しい肉体に生まれ変わるとされた

ついでに思い出しておけば

キリスト教偽典のひとつ『エノク書』では

メシアは白い雄牛として表わされる

偽典偽典っていうけれど

『エノク書』は初期キリスト教やエチオピア正教では

聖書の正統な書のひとつ

 

 

ミトラ教の洗礼の際には

雄牛の生贄が行なわれたという

深い掘割りが掘られ

そこに厚板が張り渡された

厚板には穴が開けてあったり

裂け目が作られていて

板の下で洗礼者たちが待機する

そうして

雄牛が厚板の上で殺され

血が掘割りの中にいる洗礼者たちの

上に降りかかる

洗礼者たちは上を向き

唇や耳や目や鼻腔に入り込むようにした

そうしながら雄牛の血を飲み

これまでの罪を洗い清め

生まれ変わって永遠の生を得たものだった

雄牛の血の洗礼は

子羊の血の洗礼へと変化し

やがてイエス・キリストの血へと変化し

おそらく

現代から未来にわたって

みなさん人間たちの血による洗礼へと

新たなページを開いていくことだろう

 

おお!

血に取り憑かれた人類!

 

血もまた

最大の偶像のひとつ

と断じる

この上なく厳格な神が

あらたに降臨しないかぎり

人類の悲惨と愚行は

永遠に続いていくことだろう!

 

 

さて

さて

さて

 

 

こうした問題を次から次へと想起させてしまう

金の雄牛の頭の像を

はっきりと開会式の場に据えてみせたパリ・オリンピックに対し

インターネットで批判的なニュースを配信し続ける

ステュー・ピーターズ(Stew Peters)氏は

Xでこのように批判した

 

Stew Peters

They’re literally worshipping a GOLDEN CALF in the Olympics opening ceremony. Wake the FUCK up.

https://t.co/kU8SuEhLFM

 

慧眼で

鋭い指摘である

 

ところが

大企業の裏の企みを隠したり

国際的な悪巧みを擁護してうやむやにするために

工作員たちが金をもらって書く批判コメントの

「コミュニティーノート」が

ピーターズ氏のこの投稿にすぐに付けられた

 

オリンピック開会式の金の牛は、有名な観光名所トロカデロ公園の、

雄牛と鹿を再現したものとのことです。

旧約聖書の古代イスラエル人が作った金の子牛とも関係がなく、

悪魔崇拝でもない。


 

たしかに

トロカデロ庭園には

1937年にポール・ジューヴ(Paul Jouve)が作った

彫像の「雄牛の頭と跳ねるダマシカ」

Tête de taureau et daim bondissant

がある

エッフェル塔に向かって

雄々しく世界を見据えるかのような雄牛と

そのわきで

世界へと跳ねていこうとしているかのようなダマシカの姿で

ブロンズに金メッキを施されたもの


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image.png


 

開会式では

このポール・ジューヴ作の彫像を

そのまま使った

歳月とともに剥げ落ちた金を塗り直し

シナイ山から降りてきたモーゼが目にしたような

金ぴかの雄牛像のように

仕立て直して

 

Xでは

「コミュニティーノート」を見た人が

さらに

こんな批判も書いていた

 

コミュニティノートが庭園のモニュメント由来と理屈を述べている

五輪の横に鎮座される必然性など無いだろう。

レインボーフラッグも添えたら如何かな。

世界の祭典で危険な遊びはするな。

雷鎚がこの世を裁くだろう。

 

奇妙な意味あいを生んでしまわないように

なるべくニュートラルな表象使用をしたほうがよいはずの

オリンピックの開会式において

あまりに多義的で

ヨーロッパの深すぎる宗教的暗部に繋がりすぎる

雄牛の首など

オリンピックの五輪のマークと重ねて見えるようには

しないほうがよい

と考えるのが無難というものだろうが

今回のパリ・オリンピックでは

悪魔崇拝やユダヤへの偏向の意味も出してしまいかねない

黄金の雄牛のイメージを

堂々と開会式で提示したというのは

疑いようもない事実である

 

わかる人には

表象の「危険な遊び」であることがすぐに読み取れるが

わからない人には

トロカデロ庭園に据えられているジューヴの彫刻を

そのままうまく使ったエコな配慮

とも受けとれるし

フランス国家の雄々しさを表わしているだけのことじゃない?

とも受けとれる

こういう表象の出し方や使い方が

世界支配の基本中の基本だということは

まあ

思い出しておいたほうがいい

 

クリシュナ神の権化であり

シヴァ神やカーリー神の権化でもあるわたくしは

でも

でも

まあ

Ochame

言って済ましてしまうのだが

 

 

 

 

(付)フランスのことではないが

イギリスで行なわれたバアル崇拝儀式の映像も

参考に載せておこう

https://www.youtube.com/watch?v=cG3oShnHNXI





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