2025年3月26日水曜日

その瞬間にわたくしはわたくしに出会う

 

 

 

花が好きだから

きれいな風景が好きだから

非日常感のある変わった写真が好きだからと

ネット上で見つけた写真や

じぶんで撮った写真を

いろいろとSNSにアップするとする

 

しかし

そんな作業に費やせる時間も限られているし

体力にも気力にも限界があるので

多数ある選択肢のうち

一部だけを選んでアップすることになる

200枚も300枚も端末にダウンロードしたというのに

SNSにアップするのは

あるいはアップし直すのは

せいぜい20枚や30枚程度だったりする

 

その際に

どれを選んで

どれは選ばないか?

 

ここに

わたくしのわたくし性の

最も鮮やかな発露の瞬間がある

 

その瞬間に

わたくしはわたくしに出会う

 

汝自身を知れ

という神命にふさわしい契機は

現代社会の中に

満ち満ち

溢れかえっている





飽きちゃった

 


 

ことしも桜の開花宣言が出て

ワアッと満開にむけて

桜どもが

あの連中が

雪崩れて咲き満ちていくところ

 

けれど

ぼくはもう

飽きちゃった

桜どもよ

きみらが桜であることに

きみらが旧態依然の桜ぶりしかできないことに

 

この数十年

春には桜をはげしく見て歩き

この数年はことに

桜狩りも募りに募って

見て見て見て見て見歩いて

日中ばかりか夜桜も

休む暇なき花見の日々

 

飽きちゃった

十分だ

もういいや

 

桜どもよ

きみらが桜であることに

きみらが旧態依然の桜ぶりしかできないことに

 






いつからか、僕が不在である部屋

 

 

 

 

詩集の表題と同じ名の

「淡水魚」という渋沢孝輔の詩には

 

いつからか、僕が不在である部屋。

 

とあって

彼がこの詩の題名を詩集の表題に使ったのも

なるほど

と思わされた

 

 

いつからか、僕が不在である部屋。奇妙な音楽に耳傾けな
がら、歳月は渾沌としている。そしてある日、どこからか亡
霊のように帰ってきた僕は、なお坐り心地の悪い椅子にかけ、
窓を開けて空を見るのだ。欅の木のかなたの、秋の空を?
激しく燃え、熱のない炎は一面に攪乱されて、いまや昼と夜
とが交代しなければならず、僕はかつての不吉な命を、眠り
のなかに葬るだろう。

 

 

渋沢孝輔については

昔よく会って

意見の交換も多かった詩人の関富士子が

明治大学在学中に習ったか

親しんだそうで

「渋沢先生」と呼んでいた

 

わたしには

いくら読もうとしても

頭の言語叢の上を上滑りしていくばかりの

苦手な詩人である

 

嫌いなのではないが

つまらない

すごく期待して読むのに

ぱさぱさの

粗末な紙を捲らされるような気になる

戦後に詩界を支配した偏った詩語の域内で留まって

ついに詩の外に出なかったものを

詩として維持し続けた人のひとりと感じる

 

勝手に

わたしひとりでそう「感じる」だけで

世にいう現代詩推し連中は

褒めそやし

頭上に高く押し戴いて

いつまでも

時間と意識を隷属さえていくのかも

しれない

 

とはいえ

嫌いなのではない

すごく期待して

目につくたびに

捲り直す

ここでもっとパアッと飛んでほしいなあ

ここも!

そこも!

もっとバァンと!

ほら!

ほら!

ほら!

などと

吉増剛造の初期の「!」の嵐のような

声援を送りたくなる

渋沢孝輔の詩句

 

嫌いではないので

数年前に神田の古本まつりで買ってしまった

立派で重い装幀の「渋沢孝輔詩集」(小沢書店、昭和五十五年)など

いつも手元に置いて

週になんどか

開いてみたりしているのだ

 

きのう

ようやく詩集「淡水魚」の部分を終えて

(なんと

59ページのここまで来るのに

三年はかかったのだ!)

つまらなかったなあ

つくづく

つくづく

しながらコーヒーを飲んでいる

 

プレヴェールふうの

「会話」なども

詩集には含めていたりするのに

おもしろくないんだよなあ

どうしてだろうね

などと

他人事なのに

思いやっていたりする

 

とはいえ

嫌いではないので

最後の「歳月」などには

気持ち

よくわかるよ

と言っておきたくもなる

 

よくわかるけれども

わたしは

同意も共鳴も

併走も

できない

とも

言っておきたくなる

 

 

歳月

 

〈この世界をわたしは望んだことはない〉

〈けれどもそれがおまえの運命というものさ〉

日々が重ねられ

古びた地球のうえに

わたしはそれゆえ自分の運命を刻んだ

〈この世界はわたしの作品なのだ〉

〈この世界はおまえの限界なのだ〉

 

 

いいのは

最初の一行だけで

あとは

ぜんぶダメ

 

これが

わたしにとっての

渋沢孝輔の詩なのだ

 

わたしが彼の友人ならば

わたしが彼の編集者ならば

即興にこう書き換えて

返しただろう

 

 

歳月

 

〈この世界をわたしは望んだことはない〉

〈そしてそれはおまえの運命でさえない〉

日々は重ねられ得ず

古びた地球

などと

知ったかぶりに洩らす

知を装った痴に浸り切った連中の肉を

きょうも

霊として通り抜けて

自分もなければ

運命を刻むこともない

わたし

〈作品などない〉

〈限界は非限界と反限界をつねに隣接する〉

 

 

ちょっと

直し過ぎちゃったかな?

 

でも

つや消しで

(それが渋沢孝輔ならではの味)

渋いけれど

「山麓の部屋」などは

よかったかな

 

 

山麓の部屋

 

そとは暗く 山々の麓の野に
いまは物音もない
冴えて渡る風の中を
遠くの方に いくつか灯も煌いているだろうに

 

そとは暗く オレンジ色の部屋の中に

怠惰な心が重く

僕はただ聞いている やっとの思いで

音のない音を 語り手のない物語を


暗い幼年時代を 荒れ果てた少年時代を
虚ろな死人たちの夜のほか
それらの 形見とてなく


そとは暗く 部屋の中に
光はオレンジ色の眠りを眠り
風の声だけが いまも昔のままに澄んでいる

 

 

けれど

こうして見直してみると

よいのは

第一連と

第二連の一行目まで

 

「怠惰な心が重く」から

一気に

詩は

詩から離れて崩れ

第三連の見るも哀れな衰弱

そして

水増しされ切った紋切り型処理の

第四連へ

 

まあ

ソネット形式を

維持したかったのだろうけれど

いったん

書き上げた後で

ぜんぶ

切り刻んで

べつの域へ進めば

よかったのに

 

 






2025年3月24日月曜日

わたしはルドルフ・ヘスだ

 

 

 

『関心領域』という映画を見た

 

2023年の映画で

すごい映画だ

大事な映画だ

けっこう

宣伝されていた

 

アウシュビッツ強制収容所のすぐ隣で

所長を務めるルドルフ・ヘスと

その家族が

平穏に

満ち足りて

いかにも家族して

暮らしている

 

収容所からは

たぶん

射殺している音らしい

銃声が

年中

聞こえてきている

 

ときどき

叫び声も聞こえてくる

 

死体を焼く臭いも

風の向きによっては

ときどき

流れてくるらしく

訪ねてきた老母は

不快感を

覚えていたらしかった

 

殲滅収容所のわきで

平然と

所長一家が幸福そうに暮らしている

そこのコントラストで

衝撃を出そうとしている

そんな映画と

見えた

 

ところが

見終えてしまうまで

これといって

衝撃は受けなかった

ははぁ

これで衝撃を与えようとしているんだな

と見えすぎてしまい

衝撃は受けなかった

 

映画に没入して

一気に見てしまう時間はとれないので

少しずつ

夕食の時間に見るようにし

だんだんと見終えていったけれど

べつに

食べ物の味わいに差し支えるようなことは

なかった

消化に差し支えるようなことも

なかった

 

『関心領域』という映画は

繋がっているはずの

ごく近い空間への関心の徹底的欠如を

扱っているが

この映画を見ながらわたしが食べた

鶏肉や豚肉や魚が

生きていた時間にも

殺されていく瞬間の時間にも

ごく近くはなくとも

そう遠くなく

繋がっているはずなのに

しかも

それらの時間への関心を

徹底的に欠如しているわけでもないのに

平然と

鶏肉を豚肉を魚を

わたしは食べた

 

わたしもまた衝撃そのものだ

 

わたしはルドルフ・ヘスだ

 

 



 

*『関心領域(The Zone of Interest)』(ジョナサン・グレイザーJonathan Glazer監督、2023





2025年3月23日日曜日

できるんだか

 

 

 

最低限の生活記録メモは

なるべく

つけるようにしている

 

何時頃に

どんなものを食べたとか

なにをしたとか

どこでどのくらいの地震があったとか

夢の内容はこうだったとか

布団を干したとか

シーツを洗ったとか

 

ところが

気持ちが忙しかったり

重かったりして

来る日も来る日も

メモが機敏にとれない時もある

 

そうなると

きのうの夕食とか

おとといの夕食とか

数日前の夕食とか

思い出しながら

メモをすることになる

のだが

 

これが

けっこう大変

 

きのうぐらいなら

ともかく

おとといの夕食だの

さらにその前の夕食だの

ずいぶんと

思い出しづらくなってしまう

 

先週の夕食となると

もう

ほとんど

正確に思い出せなくなる

 

そうして

思う

 

人生人生人生と

ごたいそうに

思っていたりするが

人生人生人生

だなんて

なぁに

言ってるんだか

 

おとといや

先週の夕食も思い出せないアタマが

いったい

人生のなにを

どんなふうに思い出して

どう価値づけて

評価して

まとめたりするんだか

 

できるんだか






春の浮遊霊しちゃって

 

 

 

きょうはずいぶん暖かかったので

咲いてしまうのではないかと

あやぶんだが

まだまだ

ぎりぎりのところで

咲かないでいてくれたので

ホッとした

 

桜が咲くのはわずらわしい

 

いそがしくなる

 

あっちの桜も見たくなるし

こっちの桜の咲きぐあいも気になる

 

昨年まで

ずいぶん精を出して

花見花見花見とがんばったが

そうしたのも

二度と花見をしないでいいようにと

なにか清算するつもり

キリをつけるつもり

だったのだ

 

なのに

桜がいざワッと咲き出すとなると

ことしも落ち着きを失って

あっちの桜

こっちの桜と

いそがしく

情緒不安定な子のように

浮遊霊しちゃって

徘徊しまわるんじゃないかと

思う

 

まったく

なさけない

 

清算したつもり

キリをつけたつもり

なのに

典型的なまでに

春の浮遊霊しちゃって

徘徊しまわるんじゃないかと

つらい

なさけない

ふがいない

わずらわしい

いそがしい

くるおしい

 

ああ

花見花見花見

 

ああ

花見花見花見