2026年1月8日木曜日

『非ず、非ず』 ーー不老、不滅、不死、安泰


 

 

 

執着ある人は、その特徴である思考力(欲望)が

つなぎとめられているところへ、業とともにおもむく。

この世で彼が何をなすにしても、

その業(の招く果報)のはてまでいたり、

再びその世界(業の果報としておもむいた世界)からこの世へと、

業を積むために彼はたちもどる。

                                  「ウパニシャッド」

 

 

 

 

2026年の現代において

世界各地で

好んで

思い出されそうな

『ヨハネの黙示録』の

2211-13(新共同訳)の言葉

 

不正を行う者には、なお不正を行わせ、

汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。

正しい者には、なお正しいことを行わせ、

聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

見よ、わたしはすぐに来る。

わたしは、報いを携えて来て、

それぞれの行いに応じて報いる。

わたしはアルファであり、オメガである。

最初の者にして、最後の者、

初めであり、終わりである。

 

強く

美しい詩句であるが

やや悲愴であり

若すぎる

 

これらの作文のしかたを

文明の根幹に置いた西欧が

永遠に

悟りに達し得ないであろう所以でもある

 

不正や汚れは

そのまま腐敗であり

分解であって

必ず微生物や細菌の養分となる

次代を担う微生物も細菌も

タンパク質やアミノ酸

さらには分子や原子の構造でのみ

生成を続けていく

 

量子レベルにおいて

不正や汚れとは

なんであろうか?

 

エッセネ派の修行者イエスに

また

その弟子のヨハネに

わたしは問う

 

 

イエスがインドへ修行の旅に出た際

もちろん出会ったであろう

ウパニシャッドの思想展開について

ごく一部分のみ

短く

ふり返っておく

 

 

ウパニシャッド(Upanisad)

第四節  自己(アートマン)の探求 (紀元前5世紀~紀元2世紀頃)

 

このアートマンが無力状態になり、惑乱に陥ったかのようになったとき、彼のところにこれらの諸機能が集まって来ます。彼はこれらの輝く精知を摂収して、まさしく心臓へと降下して行きます。

この眼のなかにいる人間(眼の精気)が(眼を)離れ去って、(外界とは)反対の方向に(心臓のほうに)向くと、彼(瀕死の人)はもはや形を識別しなくなるのです。    

(眼のなかの人間はアートマンと)一体になり、『彼は目が見えない』と人々はいいます。(嗅覚、味覚、ことば、聴覚、思考力、認識力はアートマンと)一体になり、『彼は香りがわからない』『彼は味を感じない』『彼は話さない』『彼は耳が聞こえない』『彼は考えない』『彼は触感をもたない』『彼は認識しない』と人々はいいます。 彼のこの心臓の先端は(摂収された精気によって)輝き、その輝きによってこのアートマンは、眼から、あるいは頭から、あるいは身体の他の部分から出て行くのであります。それが上へ出て行くとき、気息(プラーナ)はそのあとに従って上へ出て行きます。上に出て行く気息のあとに続いて、 すべての機能も上に出て行きます。

 

(肉体を離れたアートマンは、気息や諸機能をそなえて)意識あるものとなり、まさしく意識をもつもの(次の生をうける母胎)へと下って行きます。(この世における彼の)知識と行為、ならびに記憶は、それに背後からつかまっているのです。

あたかも青虫が草の葉の先端に達したとき、(他の葉へと)さらに一歩を踏み出して、身を(そちらに)引きつけるように、このアートマンも、この世の身体を捨てて無知にしたのち、(別の身体へと)さらに一歩を踏み出して身を(そちらへ)引きつけるのです。

たとえば刺繍をする女が、刺繍の一部分をほぐして、 別の、いっそう新しく、いっそうすばらしい模様を縫いとるのとまさに同じように、このアートマンも、この世の身体を捨てて無知にしたのち、別の、いっそう新しく、いっそうすばらしい形ーー祖霊の、あるいはガンダルヴアの、あるいは神の、あるいは造物主の、あるいはブラフマン(の世界の住人)の、あるいは他の生物のーーをとるのです。

このアートマンは、まさに、ブラフマンであります。 それは認識から成り、思考力から成り、気息から成り、眼から成り、耳から成り、地から成り、水から成り、風から成り、虚空から成り、光輝から成り、非光輝から成り、欲望から成り、無欲から成り、瞋恚から成り、非瞋恚から成り、正義から成り、不正から成り、いっさいから成るものです。すなわち、『これから成り、あれから成る』といわれるままのものとしてあるのであります。 それは人の行為に従い、行動に従って、それに応じたものとなります。善行をなせば善くなり、悪行をなせば悪くなります。福徳の業によって福徳ある者となり、悪業によって罪ある者となるのであります。

さて、『この人間は、実に、欲望から成るものである』といわれております。彼は欲望のままにそれを意図する者となり、何事かを意図すればそれを行ない、何事かを行なえばそれに応じた者となるのであります。

この点について次の詩節があります。

 

執着ある人は、その特徴である思考力(欲望)が

つなぎとめられているところへ、業とともにおもむく。

この世で彼が何をなすにしても、

その業(の招く果報)のはてまでいたり、

再びその世界(業の果報としておもむいた世界)からこの世へと、

業を積むために彼はたちもどる。

 

欲望をもつ人(の死後の運命)は以上のとおりです。

しかし、欲望をもたない人は(どうなるかといえば)、――欲望のない、欲望を離れた、欲望がすでに満たされた、アートマン(だけ)を希求する人の諸機能は、(彼の死に際して)上方へ出て行きません。彼はブラフマンそのものであり、ブラフマンに帰入するのです。

その点について次の詩節があります。

 

彼の心を拠りどころとする

すべての欲望が放棄されるとき、

死すべきものは不死となり、

この世でブラフマンに到達する。

 

あたかも蛇のぬけがらが、蟻塚の上に遺棄されて生命なく横たわっているように、この身体も同様に(生命なく)横たわっています。そして身体をもたない不死の生(プラーナ)〔アートマン〕は、まさしくブラフマンであり、光輝そのものなのです」

 「わしは尊師に千頭(の牛)をさし上げよう」とヴィデーハ国王ジャナカはいった。

 (ヤージニャヴァルキヤはさらに続けた。)「この点に関して次のような詩節があります。

 

太古以来の細い道は延々と連なり、

わたしに及び、実にわたしによって見出される。

それを経て、賢明な、ブラフマンを知る人々は、

この世から解放されて、上方へ、天国へと至る。

 

そこには白や、また青、黄、

緑や赤があると人々はいう。

この道は実にブラフマンによって見出され、それを経て、

ブラフマンを知る人、徳行の人、また光輝と化した人は行く。

無知に耽溺する人々は、

文目もわかぬ闇に陥る。

知識(伝統的な、祭式に関する知識)に満足する人々は、しかし、

それにまさるかのような暗闇に陥る。

 

それらの世界は「無歓喜」といわれ、

漆黒の闇におおわれている。

無知の、(アートマンに)目ざめぬ者にちは、

死後にはそこにおもむくのである。

人がもし「わたしはこれである」と、

アートマンをはっきり認識するとき、

彼は何を望み、何のために、

肉体に即して苦しむのであろうか。

この身体内の洞窟に潜む、

アートマンを見出し、確認した人は、

万物の創造者。――彼はいっさいをつくり出すから。

世界は彼のものである。否、彼は世界そのものである。

まさしく現世にありながら、しかもわれわれはそれを知る。

仮にそうではないとすれば、無知と大きな破滅があろう。

それを知る人々は不死となり、

他の者はまさしく苦に至る。

このアートマンをまのあたりに

神として、過去・未来の支配者として、

人が洞見すれば、そのとき

彼は疑念をいだかなくなる。

歳は、それのこちら側で、

日々を重ねて回転し、

神々はそれを、光のなかの光、

不死の生命として崇拝し、

五種の生物の群れ、ならびに、

虚空がそれを拠りどころとする、

そのアートマンをこそ、不死であるわたしは

知者として、不死のブラフマンとみなす。

気息の真髄、また、眼の真髄、

耳の真髄、思考力の真髄を

知る人々は、万古不易の、

太初のブラフマンを認識した。

この世において何物も、多様に存在しないとは、

ただ思考力によってのみ、考察されるべきである。

この世において(万物を)、多様であるかにみなす者、

彼は死から死に至る。

この滅びることのない恒久のものは、

全一的にのみ観察されるべきである。

それは汚れなく、虚空を超越し、

不生、偉大、不変のアートマンである。

賢明な婆羅門はまさしくそれを知って、

叡智を自らに培うべきである。

多くの言辞を思いめぐらすべきではない。

それはことばを疲れさせるだけであるから。

 

まことに、この偉大な不生のアートマンは、認識から成り、諸機能に(その内部の光として)存在し、心臓の内部にある空処に休らっております。それはいっさいの統御者、いっさいの主宰者、いっさいの君主であります。 それは善行によって増大することもなく、悪行によって減少することもまったくありません。それはいっさいの主であり、それは万物の君主であり、それは万物の守護者であります。それはこれらの諸世界を、(混ざり合って)ともに潰滅してしまわないように、相隔てている堰であります。

婆羅門たちは、ヴェーダの学習により、祭祀により、布施により、苦行により、断食によって、それを知ろうと望みます。それさえ知れば、人は聖者となるのです。 遊行者たちは、まさしくこれを(天上の)世界として求めつつ、遊行するのです。まことに、こういうわけで、昔の知者たちは、『われわれにはこのアートマンがあるのに、この(天上の)世界があるのに、子孫をもって何になろう』と考えて子孫を望みませんでした。彼らは息子を得たいという願望、財産を得たいという願望、世界を得たいという願望から離脱して、乞食(こつじき)の遊行生活をしたのです。実に、息子を得たいという願望は、財産を得たいという願望と同じであり、財産を得たいという願望はそのまま、世界を得たいという願望なのです。これらはいずれも願望であることに変わりがありませんから。

この『非ず、非ず』という(標示句によって意味される)アートマンは不可捉でありますーーそれは把捉されませんから。不壊でありますーーそれは破壊されませんから。無執着でありますーーそれは執着しませんから。 つながれていないが動揺もせず、毀損されもしないのです。『こういうわけでわたしは悪をなした』ということも、『こういうわけでわたしは善をなした』ということも、いずれもそれ(アートマン)をこえて行くことはありません。 実に、それが両者をこえて行くのです。人がなしたこと、なさなかったことが、それを焼き滅ぼすことはありません。

このことは讃誦によって述べられております。

 

これは婆羅門(ブラフマンを知る者)の永遠の偉大さ。

行為によって増大もせず、減少もしない。

それをこそ知るべきである。それを知れば、

罪の行為によって汚されはしない。

 

したがって、このように知る者は、安らかで、自制があり、平静で、忍耐強く、心を統一した者となり、自己のなかにアートマンを認め、いっさいをアートマンとみるのであります。罪が彼に打ち勝つことはなく、彼がすべての罪に打ち勝ちます。罪が彼を焼き滅ぼすことなく、彼がすべての罪を焼き滅ぼします。彼は罪なく、汚れなく、疑いをもたず、(真の)婆羅門となるのです。

これがブラフマンの世界であります。大王さま、陛下はそれに到達されたのです」とヤージニャヴァルキャは語った。

 「わしは尊師にヴィデーハ国民を、わし自身も諸共にさし上げ、奴僕として仕えよう」と(ジャナカ王はいった)。

 (ヤージニャヴァルキャはさらに続けて付言した。)「まことに、この偉大な、不生のアートマンは、(祭場にそなえられた)食物を食べる者、(祭祀の報奨として祭主に)財産を与える者です。このように知る者は財産を得るのです。

まことに、この偉大な、不生のアートマンは、不老、不滅、不死、安泰であり、ブラフマンであります。ブラフマンは、実に、安泰です。このように知る者は、まさしく安泰に、ブラフマンになるからです」 *

 

 


地上の人間界の言語表現が

めずらしく価値を持ちうる例のひとつが

このウパニシャッドであり

後の時代の文芸や歌謡などは

これと比べれば

まさしく単なる感傷的なクズの乱舞に過ぎない

それらを文化だの古典だのとは

まあ冗談も甚だしく

よく呼んだものだというのが

ウパニシャッドを読めば一目瞭然だろう

 

ちゃんと

言語表現批判も盛り込まれているので

このあたり

再三再四

読み直しておくべきだろう


 

この世において(万物を)、多様であるかにみなす者、

彼は死から死に至る。

この滅びることのない恒久のものは、

全一的にのみ観察されるべきである。

それは汚れなく、虚空を超越し、

不生、偉大、不変のアートマンである。

賢明な婆羅門はまさしくそれを知って、

叡智を自らに培うべきである。

多くの言辞を思いめぐらすべきではない。

それはことばを疲れさせるだけであるから。

 

 

 

 

 

 

*「世界の名著1 バラモン経典」(中央公論社、1969所収の服部正明訳による。引用ページはp.97からp.102







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