執着ある人は、その特徴である思考力(欲望)が
つなぎとめられているところへ、業とともにおもむく。
この世で彼が何をなすにしても、
その業(の招く果報)のはてまでいたり、
再びその世界(業の果報としておもむいた世界)からこの世へと、
業を積むために彼はたちもどる。
「ウパニシャッド」
2026年の現代において
世界各地で
好んで
思い出されそうな
『ヨハネの黙示録』の
第22章11-13(新共同訳)の言葉
不正を行う者には、なお不正を行わせ、
汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。
正しい者には、なお正しいことを行わせ、
聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。
見よ、わたしはすぐに来る。
わたしは、報いを携えて来て、
それぞれの行いに応じて報いる。
わたしはアルファであり、オメガである。
最初の者にして、最後の者、
初めであり、終わりである。
強く
美しい詩句であるが
やや悲愴であり
若すぎる
これらの作文のしかたを
文明の根幹に置いた西欧が
永遠に
悟りに達し得ないであろう所以でもある
不正や汚れは
そのまま腐敗であり
分解であって
必ず微生物や細菌の養分となる
次代を担う微生物も細菌も
タンパク質やアミノ酸
さらには分子や原子の構造でのみ
生成を続けていく
量子レベルにおいて
不正や汚れとは
なんであろうか?
エッセネ派の修行者イエスに
また
その弟子のヨハネに
わたしは問う
イエスがインドへ修行の旅に出た際
もちろん出会ったであろう
ウパニシャッドの思想展開について
ごく一部分のみ
短く
ふり返っておく
ウパニシャッド(Upanisad)
第四節 自己(アートマン)の探求 (紀元前5世紀~紀元2世紀頃)
このアートマンが無力状態になり、
この眼のなかにいる人間(眼の精気)が(眼を)離れ去って、(
(眼のなかの人間はアートマンと)一体になり、『
(肉体を離れたアートマンは、気息や諸機能をそなえて)
あたかも青虫が草の葉の先端に達したとき、(他の葉へと)
たとえば刺繍をする女が、刺繍の一部分をほぐして、 別の、いっそう新しく、
このアートマンは、まさに、ブラフマンであります。 それは認識から成り、思考力から成り、気息から成り、
さて、『この人間は、実に、欲望から成るものである』
この点について次の詩節があります。
執着ある人は、その特徴である思考力(欲望)が
つなぎとめられているところへ、業とともにおもむく。
この世で彼が何をなすにしても、
その業(の招く果報)のはてまでいたり、
再びその世界(業の果報としておもむいた世界)からこの世へと、
業を積むために彼はたちもどる。
欲望をもつ人(の死後の運命)は以上のとおりです。
しかし、欲望をもたない人は(どうなるかといえば)、――
その点について次の詩節があります。
彼の心を拠りどころとする
すべての欲望が放棄されるとき、
死すべきものは不死となり、
この世でブラフマンに到達する。
あたかも蛇のぬけがらが、
「わしは尊師に千頭(の牛)をさし上げよう」
(ヤージニャヴァルキヤはさらに続けた。)「
太古以来の細い道は延々と連なり、
わたしに及び、実にわたしによって見出される。
それを経て、賢明な、ブラフマンを知る人々は、
この世から解放されて、上方へ、天国へと至る。
そこには白や、また青、黄、
緑や赤があると人々はいう。
この道は実にブラフマンによって見出され、それを経て、
ブラフマンを知る人、徳行の人、また光輝と化した人は行く。
無知に耽溺する人々は、
文目もわかぬ闇に陥る。
知識(伝統的な、祭式に関する知識)に満足する人々は、しかし、
それにまさるかのような暗闇に陥る。
それらの世界は「無歓喜」といわれ、
漆黒の闇におおわれている。
無知の、(アートマンに)目ざめぬ者にちは、
死後にはそこにおもむくのである。
人がもし「わたしはこれである」と、
アートマンをはっきり認識するとき、
彼は何を望み、何のために、
肉体に即して苦しむのであろうか。
この身体内の洞窟に潜む、
アートマンを見出し、確認した人は、
万物の創造者。――彼はいっさいをつくり出すから。
世界は彼のものである。否、彼は世界そのものである。
まさしく現世にありながら、しかもわれわれはそれを知る。
仮にそうではないとすれば、無知と大きな破滅があろう。
それを知る人々は不死となり、
他の者はまさしく苦に至る。
このアートマンをまのあたりに
神として、過去・未来の支配者として、
人が洞見すれば、そのとき
彼は疑念をいだかなくなる。
歳は、それのこちら側で、
日々を重ねて回転し、
神々はそれを、光のなかの光、
不死の生命として崇拝し、
五種の生物の群れ、ならびに、
虚空がそれを拠りどころとする、
そのアートマンをこそ、不死であるわたしは
知者として、不死のブラフマンとみなす。
気息の真髄、また、眼の真髄、
耳の真髄、思考力の真髄を
知る人々は、万古不易の、
太初のブラフマンを認識した。
この世において何物も、多様に存在しないとは、
ただ思考力によってのみ、考察されるべきである。
この世において(万物を)、多様であるかにみなす者、
彼は死から死に至る。
この滅びることのない恒久のものは、
全一的にのみ観察されるべきである。
それは汚れなく、虚空を超越し、
不生、偉大、不変のアートマンである。
賢明な婆羅門はまさしくそれを知って、
叡智を自らに培うべきである。
多くの言辞を思いめぐらすべきではない。
それはことばを疲れさせるだけであるから。
まことに、この偉大な不生のアートマンは、認識から成り、
婆羅門たちは、ヴェーダの学習により、祭祀により、布施により、
この『非ず、非ず』という(標示句によって意味される)
このことは讃誦によって述べられております。
これは婆羅門(ブラフマンを知る者)の永遠の偉大さ。
行為によって増大もせず、減少もしない。
それをこそ知るべきである。それを知れば、
罪の行為によって汚されはしない。
したがって、このように知る者は、安らかで、自制があり、
これがブラフマンの世界であります。大王さま、
「わしは尊師にヴィデーハ国民を、わし自身も諸共にさし上げ、
(ヤージニャヴァルキャはさらに続けて付言した。)「
まことに、この偉大な、不生のアートマンは、不老、不滅、不死、
地上の人間界の言語表現が
めずらしく価値を持ちうる例のひとつが
このウパニシャッドであり
後の時代の文芸や歌謡などは
これと比べれば
まさしく単なる感傷的なクズの乱舞に過ぎない
それらを文化だの古典だのとは
まあ冗談も甚だしく
よく呼んだものだというのが
ウパニシャッドを読めば一目瞭然だろう
ちゃんと
言語表現批判も盛り込まれているので
このあたり
再三再四
読み直しておくべきだろう
この世において(万物を)、多様であるかにみなす者、
彼は死から死に至る。
この滅びることのない恒久のものは、
全一的にのみ観察されるべきである。
それは汚れなく、虚空を超越し、
不生、偉大、不変のアートマンである。
賢明な婆羅門はまさしくそれを知って、
叡智を自らに培うべきである。
多くの言辞を思いめぐらすべきではない。
それはことばを疲れさせるだけであるから。
*「世界の名著1 バラモン経典」(中央公論社、1969)
0 件のコメント:
コメントを投稿