2026年8月18日火曜日

イリュージョンとしての「真現在」

 

 

 

映画は

撮影された多量の写真によって

みずからの身体を

構成する

 

多量の写真は

レンズによって集積された光の情報の痕跡であり

集積された時点では

まだ

そこに映画の主体を出現させない

 

主体

とりあえず呼んだが

魂とか

作品などと

呼びたい者もいるだろう

 

「その映画」

とでも

呼んでおくほうが

いちばん

ニュートラルかもしれない

 

 

 

**

 

集積された光の情報の痕跡としての写真は

すべて

過去痕跡である

 

現在・過去・未来

という俗で曖昧で不正確な時間分割概念を用いるならば

あらゆる写真は過去であり

現在も

もちろん未来も

写真には介入できない

 

しかし

写真に見入る人は

そこに

現在を見ている気がしている

それこそが現在であるかのような

「真現在」とでも

呼ぶべきものが見てとれる

気がしている

 

 

 

***

 

多量の写真を

連続的にコマ送りして現象化させていくものとしての

映画の場合

イリュージョンとしての「真現在」は

さらに詐術の度を高める

 

人はいともたやすく

「動画」と呼びならわして受け入れるが

そもそも

動きがあるように見えるのが

視覚がコマ送りの速度に追いつけないゆえの錯覚である

 

かりに

視覚の無能さに目をつぶり

そこに発生している錯誤を不問とするとして

動画なるものが

目の前に現前しているとしよう

 

なにを見ているのか?

 

かたちも色も

もちろん

人物も

さまざまな物体や物品も風景も

すべて

見られている瞬間には

そのありようでは存在していない過去であり

つまり

「ない」のであり

不在である

 

しかしながら

コマ送りの速さによって

動きがあるかのように錯誤させられるので

集積された光の情報の痕跡の

連続的な早送りという運動とそこから生じてくる効果だけは

現前している

 

それらは「今」ある

 

それらは「今」起こっている

 

 

 

****

 

そうした「今」にさえ

能力の低すぎる視覚から来る

捉え違いがあり

錯誤がある

 

現在・過去・未来

という不確かな俗な時間分割概念を捨てて

もっと正確な時間概念を準備すべきなのだろう

という発想も

当然

ここには生じてくる余地がある

 

しかし

そのように進んでいこうとする場合

そもそも

曖昧で不確かな時間分割概念と

低能力の視覚によってこそ維持されてきた

写真や映画は

どこまで

崩壊せずにいられるものだろうか

 

 

 

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曖昧で不確かな時間分割概念と

低能力の視覚によってこそ維持されてきた

写真や映画

 

さて

これらの反省を

もちろん

ひとつの比喩のように用いて

人間の精神を

再考したい

 

写真や映画という単語のかわりに

人生や経験や思考や感情や判断などを

ホッブスやヒュームのように

21世紀において

ふたたび

再考したい

とも

思うが

 

必要があるだろうか?

ホッブスやヒュームの読み直しだけで

じつは

足りるものだろうか?

 



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