2018年9月15日土曜日

…Yes、わたしはこれまでのように



(…また、声が響いて来ている)


どのような呼び方をするのであれ
この世では
この環境では
このわたしなるものを義務づけられた保管期間にあっては
たゞ消極的であれ

身体が生きるかぎりは身体の生きに乗って生き
身体が機能を停止する時にはそれにしたがってわたしも去れ

災害は来るに任せ
災害によって身体を損なわれるならば損なわれるままにあれ

偶然に身体を救われて身体がなおも機能活動を続行するならば
身体の機能の継続に任せてそれに乗ってわたしとしてあれ

わたしが企画し構想し運営しているわけでもない社会の
維持にも改良にも革新にもなにに向かっても動き出してはならない

たゞ空気のようにそれら架空の約束事の束の上に漂ってあれ

どのように進もうともそれらは厖大な数の脳たちの妄想でしかないから
それらにわずかの価値さえあるものとは信じ込んではならない

いま与えられている身体と環境の偶然の織物の中で
空気のように風のように水のようにたゆたうに任せよ

未来に影響を及ぼすなにかを成そうとすれば未来の不幸しか生まない
なにひとつ積極的に為そうとはせずに
たゞ受動的であれ
たゞ消極的であれ


(…Yes、わたしは
(これまでのように
(印象の総合でしかない
(根拠も価値も必然性もないわたしの
(徹底した無為の今生を
(続けていく……)



印象


 
わたしがわたしとみなすのは意識内部に生じる印象であり
その印象によってのみであり
その印象は
外部情報受容と
知覚と
認識と
記憶と
実践的知性の活動と
の
総合と
(情報をしばしば適切に処理し切れないことから来る)
ある種の混乱
に
よって生じる

わたしが
わたしにとって
重要でないことは
これらの過程と状況を認識することによって
十二分に証明される

わたしは
他の肉体を管理運用する他の「わたし」と
構造上はまったく同じなので
わたしが
わたしにとって
重要でない以上は
他の「わたし」たちも
それらの「わたし」にとって
重要ではあり得ない
もし重要ででもあるかのように信じ込んでいるなら
それは
彼ら「わたし」たちの
妄想
である
妄想にしたがって
世界認識を
行ってはならないし
ましてや
外部情報の総合からなる見取り図に対して
行動したりしてはならない

世界や環境になにが起ころうとも
たとえば
修正や
改良や
革新や
変革などの
一切の行動は
行う必要がないどころか
行ってはならない
理由が
この
わたし=印象論から必然的に導かれる



2018年9月14日金曜日

しんしん


 
…それなら、詩とはなんだろうか

と都市は思う 草のまばらな
一条ゆかりまで 戻る  二条さゆり

ホワイトコード る ずえありと ずえありと

逆と順のたゆたい ダンス

“助詞も助動詞もしだいに排除していく場だよ”
と 名詞が言い 動詞が言う 

“口調を出す単語はすべからく除くべし”
と 文法が言い 語法の抑圧にかかる

 語法、管理すべし
 慣用句、廃すべし

感情や平成末期的世間的常識に漬け込んだ思念もまた

も また 除くべし

「日本、まだ駄目。働く人、これ。(腰をかゞめて、縮こまつてみせる。)働かない人、これ。(威張つて、相手をなぐり倒す恰好。)それ、みんな駄目! ーー働く人、これ。(形相凄く立ち上がる、突つかゝつて行く恰好。相手をなぐり倒しフンづける真似。)働かない人、これ。(逃げる恰好。)日本、ーー働く人ばかり、いゝ國。ーープロレタリアの國!分る?」*

ドーコトイワホ る ずりありと ずりありと

それは変圧器 知と思念と感情と実践の
それはモニター 使用単語少なめの
それは言の寺 すなわち巷でなく 家住まいでなく
それは未知へ向けられた備忘 できうれば美貌の

しんしん と 音がするね
音が してきているね

しんしん と

まだ人間の耳を持っていなかった頃
聞いただろ、よく…

しんしん 
しんしん
しんしん
しんしん……



*小林多喜二『蟹工船』



ふざけんな、って話さ


 
きのう三好達治の『測量船』をひさしぶりにめくったが
つくづく
下らないなぁ
と
作品から作品に進むたび
思った

あの萩原朔太郎の作品のかなりが
まったく詩ではない
というのに
ちょっと
近い感じかな

いつも
谷川俊太郎の詩集をめくるたびにも
思うね
おなじことを

(あれが詩か、いったい?)

詩のかたちで書くことは詩を書くことではない…

彼らのあれが詩だというのなら
どうやら
詩を書くことは詩を書くことではない
ともいえそうだ

イジドール・デュカスの『ポエジー』の議論に
再三
再四
戻らねばならないようだね

ついでに加えておくが
伊東静雄なんかも
ぼくは詩だとはまったく思っていないんだよ

ふざけんな、って話さ

北村透谷は
詩
かもしれないね

ほんの
数行
は



ごく普通のまっとうな状況感覚を持つ人が


 
いわゆる純文学系の小説のいやなところは
いつまでもトレードオフの観念が身につかない
パレード効率的な行動様式に乗れない
生きるのが下手な人か
まっとうな市場認識のできない愚者か
ただの落伍者かを
まるで被害者であるかのように扱ったり
主人公に見立てたりして
かれらの視点や価値観の中に数百ページのあいだ
幽閉されてしまうところ

日常の社会生活の中でなら
へんな人とか
めんどくさい人とか
過去にばかりこだわって
ぐたぐた嘆き節を垂れ続ける湿った人とか
それでいて何かというと自己賛美モードに入る人とか
いっしょにいるとこっちまで損をする人とか
即座にそう認識されて
他の人が離れていくタイプの
そんな人たちに
あまりといえばあまりに
過大にライトが当てられてしまうところ

ごく普通のまっとうな状況感覚を持つ人が
貸し付られている限られた時間・体力・知力・運命的財力を使って
運命づけられたヒトラー政権下で
あるいは安倍政権下で
どう個人を生き延びていくか
個人生活の充実をどう構成していこうとするか
そんなところを描き出す小説なら
本気になって読みたいと思うんだけどね



文字を知ったがゆえの盲も



神保町の
大きめの川
小さめの川
のような
さまざまな道や路の流れのほとり近くに
住むようになって
日課とまではいかずとも
本好きゆえ
おのずと週課か隔週課のように
古本屋通いをするようになってみると
人文書籍の膨大な量を
たんなる想像でではなく
まさに物量として
肉眼で見
手で触れる機会が
格段に
多くなる

興味の広い読書子なら知っている
どの著作家についても
どの思想家についても
どのテーマについても
あゝ、なんと
多くの
多過ぎる
研究書や版本や関係書物が
すでに
出されてしまっていることか

それら
厖大な書籍群の
一冊一冊に投入された
著者たちの時間と
生活と
命の
なんという計り知れない質と物量!
そうして
それらに全く見合わない
なんという
世間の側からの徹底した忘却!

心の深くまで眩暈に見舞われて
脚の舟して
住まいに寄せ帰りつく頃には
屋上屋を架す
ということの無謀さ
というより
塵労を
愚かしさを
ふたたび
痛切に学び直している

たゞ風に吹かれ
うつりかわる空を見続けているような
そんなことだけの
無限の豊かさに
人びとは
なぜ
留まっていられないのか

蘇東坡
だったか
人間文字を知るは憂患のはじめなり
と
慨嘆したのは

文字なんか
知らなきゃよかった
文盲だったら
よかった…
などと
これもまた
あまりに多くの先人たちが洩らした
嘆きを
再生機械のように口にしそうになりながら
あゝ
文字を知ったがゆえの盲も
やはり
あるのだな
と
ようやくに
痛切に
気づき出してくる



自身の所属階層についての無知はつねに…



富裕層と富裕層ワナビー向けの商売をやっている人が
地震で生活の乱れている北海道の
仕事上関わりのある人びとのことを心配し
どうしているだろうか
大丈夫だろうか
と上司に話してみたところ
私たちが必要とするのは富裕層だけだから
あんな程度のことではなんの問題もない
と答えてきたそうな

富裕層なら
キャッシュで一億や二億の引っ越し先はすぐに買えるので
たしかになんの心配もない
北海道内でいくらでも住めるところはあるのだし
北海道がダメならどこにでも越せばよい
日本でなくとも
シンガポールでも
ニューヨークでも
どこに行ってもよいし
彼らならすぐに行けるのだから
と

あゝ、まさに
2018年における詩歌や学芸の人びとの核心的問題だな、これは
とわたしは思った

個人の記憶や趣好や感傷や主義的・認識的・思想的差異の
微細な表出にこだわって
自由・平等・連帯にもとづく社会創出精神の完全崩壊の21世紀にあって
沈みゆく巨船の甲板のかたすみに閉じ籠もったつもりになって
とにかく周囲に目と耳をふさいで
なにか人間精神の前衛ででもあり得ているかのように思い込む
そんな人びとが付きつけられている
徹底的な格差の現実

おととい
それなりに旨いことで知られたB級洋食店に集まる寡黙な客たちを
ある大学教員が
静かに美味を味わうグルメな人びと
とネット上のブログに書いているのを見た
たしかにその店は
カツレツやカキフライのたぐいの揚げものが旨く
わたしもたまに行くのを楽しむが
しかし吉野家よりも席と席の間隔が狭く
隣席とすぐにも肘が当たるような狭いカウンターに向かって
つねに身を縮めがちにしながら座り
メニューといっては揚げものとカレーしかない洋食店で食べることを
グルメ
などと呼んでしまっては
社会の中にはっきり口を開けている断層をどう認識するのか
この大学教員の
ノーテンキなまでに敷居の低いグルメ概念に
ずいぶん驚かされた

昨夜は三万円のコースのディナーだった
という人に
この大学教員のグルメ話をすると
“自身の所属階層についての無知は
つねに本人の幸福と観察者の驚異と冷笑の源“
と箴言めいたことを言う

そうして
つけ加えた
「三万円ぐらいじゃ、店によるけれど、
「まだまだ、絶対に旨いというほどのことでは
「ないんだよね…