ごく普通に私が使う聖書は
日本聖書協会の新共同訳聖書(2013)で
表紙は黒いビニール装だが
上にライト・グリーニッシュ・ブルーの紙カバーが掛っている
その紙カバーは捨ててしまってもいいのだが
ライト・グリーニッシュ・ブルーの色が
またはグリーニッシュ・スカイともいうらしい色が
書庫に置くにはきれいに軽くて
そのまま掛け続けている
日本語でならば
みずいろ
みず色
水色
などと呼ばれそうな
その色合いの
軽さは
1973年のあべ静江の「みずいろの手紙」の
軽やかで
はっきりした
日本語発音の快さを
ちょっと
思い起こさせる
https://www.youtube.com/watch?v=qp-_LBQCRnk
そのライト・グリーニッシュ・ブルーに
しきりに惹かれて
手に取ってみて
よくドストエフスキーがやっていたように
でたらめにページを繰ってみると
歴代誌下のソロモン王の記述やシェバ女王の来訪のことなどが
2026年の今まさに読み直されるべきこととして
角膜に吸い込まれるように飛び込んできたが
ソロモン王の父であるダビデ王のことに少し戻って
見直しておきたく思い
いくらか遡ると
ダビデ王による神殿建築の宣言の章(歴代誌上28)に突き当たった
そうして
ダビデがイスラエルの長たる者をすべてエルサレムに召集し
立ち上がって言った言葉に
少し驚かされた
「わたしの兄弟たち、わたしの民よ、聞け。
わたしは主の契約の箱、
わたしたちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、
その建築のために準備を進めてきた。
しかし、神はわたしに言われた。
『あなたは戦いに明け暮れ、人の血を流した。
それゆえ、あなたが
わたしの名のために神殿を築くことは許されない』
と。」
今ふうに言えば
「神」と呼ばれる高次存在とチャネリングしていたダビデだが
その「神」は
ダビデが戦いに明け暮れ
人の血を流したから
ダビデが「神」の名のために神殿を築くことは
許されない
と明言していたのだ
この言葉は
現代では
巧妙に
都合よく
忘れられてしまっているようだが
ダビデの「神」は
厳しく
想像以上に真の「神」であったことが
こんなひと言からも
わかるように思う
旧約聖書は
ユダヤ教に属さない者たちから見れば
ユダヤ人の経典であり聖書であるかに見えるが
素直に読んでみればすぐわかるように
預言者たちによる厳しいユダヤ人批判の書であり
旧約聖書の「神」とユダヤ人の間には深すぎる断層が存在し
その両者は完全に分断された別物であり
ここに逆に
旧約聖書の普遍的な人類的な価値が湧出してくる
たとえばエレミヤ書の
栄えある都、わが喜びの町は
どうして捨てられたのか。
(49.25)
あるいは
また
立て、攻め上れ。
安らかに暮らしている
穏やかな国に向かって、と主は言われる。
(49.31)
などが
ユダヤ教の内外と関係なしに
強くすべての人間の意識を刺激してくる理由が
ここに発生する
ところで
私の聖書の紙カバーの
ライト・グリーニッシュ・ブルーの色
またはグリーニッシュ・スカイともいうらしい色
みずいろ
みず色
水色
のほうに寄り添い直して
あべ静江の
「みずいろの手紙」へと向き直ってみると
みずいろは涙いろ
と
歌われていて
そんな便箋に
泣きそうな心をたくします
と
阿久悠の作った歌詞は
続けられていく
ライト・グリーニッシュ・ブルーの色
またはグリーニッシュ・スカイともいうらしい色
みずいろ
みず色
水色
の
紙カバーの日本語訳聖書が
涙いろの
便箋に
たくされた
泣きそうな心
とまでは
もちろん考える必要は
ないのだが
お元気ですか
そして
いまでも
愛していると
言ってくださいますか
とか
愛していると言われた時が
だんだん
遠くなるみたい
手紙読んだら
少しでいいから
わたしのもとへ来てください
わたしのもとへ来てください
という歌詞を
聴き直していると
神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。
速やかにわたしを訪れてください。
あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。
主よ、遅れないでください。
(詩編70.6)
といった詩想の
すぐ近くを
あべ静江の明瞭な声は
飛んでいるように
感じられる
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