駿河昌樹 詩抄
気ままな詩選を自分の愉しみのために。制作年代も意図も問わず、まちまちに。
2018年9月23日日曜日
存在と不在の法則の前に
価値の気圏の外にあるわたしは
ことばの背筋もくっきりとさせて
価値のないわたし
と
存在と不在の法則の前に明言できる
しかし
わたしをここに送り込んだものは
おそるべき
価値の核
価値の王
価値そのもの
その使者であるわたし
と
やはり
存在と不在の法則の前に明言できる
教えないことこそ
教えないことこそ
もっとも
教えうること
自然も
地球も
なにも言わない
じつは
人間さえも
なにも言わない
真に
教えと呼びうる智については
言いうるのは
空間の空無を恐れて埋めようとする
無駄な詰めものとなる
音だけ
教えはたゞ発生する
教えを受けた
と感じる者の内にだけ
われわれのこの世のほうが
いわゆる宗教
に
たずさわるひとたちの
霊への無知は
いまの世ではまこと計り知れない
霊は霊の世界では
生前の名でも
戒名でも
呼ばれることはけっしてない
名は物質であり
重すぎて
その世界には入り込めない
まだしも
この世での名のほうが
逝った霊とのつながりはつけやすいものの
それは
霊がこの世に残した
アストラル体の残滓が反応するだけのこと
霊そのものは
物質界には反応できない
墓に金をかけ
戒名に金をかけるのは
逝ってすぐの霊を
じつはすこし苦しめてしまう
それらが重さを増すということを
あわれにも
あまりに知らないひとびとがいる
霊と現世をつなぐ使者たちが
かれらの耳もとであんなに
しかるべき為しかたについて
つぶやいているのに
わかる者
見え
聞こえる者は
しかし
黙って見ているほかない
霊たちのいっときの負担になるとはいえ
それほど
大げさに考えるほどのことでも
ないから
なにより
われわれのこの世のほうが
はるかに
あわれまれるべき
あの世と呼ばれるべきところだから
引き出された神経の一本だけで命とつながっているかのように
それにしても
なんと得々として
堂々として
カメラのレンズをみつめて
平然と写されることのできるひとびとの
多いことか!
あの傲慢さの底知れなさに
心を開くことの安易さに
いつも胸がふさがれるような思いに襲われる!
たゞたゞ
恐ろしいとわたしは思う!
あんなひとびとの溢れている世の
どこに隠れて
なお生きていけるだろうと
引き出された神経の一本だけで命とつながっているかのように
心ぼそくなる!
古びた大きな布団のように
むかしは
幾人も
理解しあえたひとがいたようにも
思うが
そんなのは
まちがい
懐かしく思えても
理解など
やっぱり
しあえなかった
ひとびと
子ども部屋の
古びた大きな布団のように
まぼろしで
くるみあっていただけの
ひとびと
いますれ違った子のまなざしも
いま
すれ違った子のまなざしも
わたしを透過して
うしろの灌木の
葉々の
かがやきを
見つめていたにちがいない
まだ
ときたま
わたしの輪郭の
あるかなきかのほそい線を
見とがめるひとが
いることは
いるが
現象そのものになるのが
すぐにも失われてしまうもの
そうでなくても
やがてはきっと消えてしまうものを
つくりたくなど
ない
ましてや
つくるひとだなどと
妄念に
じぶんから陥りたくはない
なにもつくらないひと
つくらなかったひと
たゞ
過ぎていくひと
過ぎ去っていくひと
それでいい
現象の世では
現象そのものになるのが
なにより
もっともいい
現象が
こむずかしく主張しようが
ぶつくさ語ろうが
それは
無数の現象のなかの
いっときの
埃
耳を持たぬ物たち
風たち
水流たちが
聴き惚れ
目をみはるようなことを
語れるのなら
造形できるのなら
それは
別格だろうが
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