2020年4月24日金曜日

白河の水とともにぞ春もゆきける




遅い時間には遅い時間の華やぎ

八重桜
肉づきのよい女の子の頬のようだったあの花びらも
もうまばらに残るだけとなった

遅い時間には遅い時間の華やぎ

桜さくら
桜たちのならぶあたり
もう緑の葉ばかり
まだ軽く
さわさわと
しかし葉ばかり
緑の葉ばかり

遅い時間には遅い時間の華やぎ

葉も あゝ 花であったね
と気づき直す
春の終わり
晩春
というのだったな
と
そう馴染みがないわけでもないのに
日常の話ことばで
あまり
使わない
使わなくなってしまった
時代時代の
なかをどうにか生き延びてきた古風な詩歌のわたしのこころが
つぶやきながら
確かめようとする

遅い時間には遅い時間の華やぎ

晩春

初夏ではまだない
ほんのちょっとの日にちの違い
数日の違い

葉桜に
みんなで成っていこうとする
桜たちのならび

ゆく末を
せきとゞめばや
白河の
水とともにぞ
春も
ゆきける
源師房*



*『後拾遺和歌集』には土御門右大臣として登場。





2020年4月22日水曜日

ムーゼルマン




どうも過越のくりかえしのように思えてならない……
と思いながら
引きずられていくうちに

ホロコースト記念日へ

ホロコースト記念日のヨム・ハ・ショア (Yom Ha-Shoah)は
2020年は4月21日

ショアは
大きな不幸や大惨事を意味する

1943年ポーランドで
ワルシャワ・ゲットー蜂起が起こった時期を起源として
ホロコーストにおけるユダヤ人大虐殺を追悼するヨム・ハ・ショア
午前10時には国中にサイレンが鳴り響き
2分間の黙祷を捧げる

もしこれを
全世界規模で行わせようとすれば
どうするのが好適か

あゝ、そうか……

アウシュビッツにおける「ムーゼルマン」、
ミイラ人間、生けるしかばね
収容所の極限状況が引き起こした前代未聞の人間の変容
「人間が非-人間に移行し」* (アガンベン) ……

あらゆる希望を捨て、仲間から見捨てられ、善と悪、気高さと卑しさ、精神性と非精神性を区別することのできる意識の領域をもう有していない囚人が収容所の言葉で呼ばれた名にしたがうなら、いわゆる回教徒である。かれはよろよろと歩く死体であり、身体的機能の束が最後の痙攣をしているにすぎなかった。**

病人の一団を遠くから見ると、アラブ人が祈っているような印象を受けた。この姿から、栄養失調で死に瀕している者たちを指すのに、回教徒という、アウシュヴィッツで普段使われた名称が生まれたのである。***

かれら、回教徒、沈んでしまった者たちこそが、収容所の中枢である。神の火花が自分のなかで消えてしまい、本当に苦しむことはできないくらいにすでに空っぽになっているため、無言のまま行進し、働く非-人間たちの、たえず更新されてはいるがつねに同一の匿名のかたまりこそが、収容所の中枢をなしているのだ。かれらの死を死と呼ぶのはためらわれる。というのも、かれらは疲弊しきっているために死を理解することができないので、死を前にしても恐れることがないからである。わたしの記憶は、かれらの顔のない姿でいっぱいである。****

全世界にムーゼルマンを再出現させ……

あゝ、そうか……

となれば
これから、さらに、
来る?
さらなる非-人間の量産が……?

しかし、

その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。
わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。
(旧約聖書、新改訳改訂第3版、出エジプト記12章12~14節)

もし
傷のない一歳の雄の羊
を
生け贄にするならば
その血を
羊を食べる家々の二本の門柱と
鴨居に
付けておくならば

主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは【主】への過越のいけにえである。
(旧約聖書、新改訳改訂第3版、出エジプト記12章1~12節)




注
(アガンベンの著書以外についての注は、小野寺秀也氏のブログ「かわたれどきの頁繰り」に依り簡便化して表記。詳しくは氏のアガンベン書評を参照されたい

*ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』((上村忠男、廣石正和訳、月曜社、2001年)

**Améry, J.  Un intellettuale a Auschwitz, Bollati Boringhieri, Torino 1987 (ed. orig. Jenseits von Schuld und Sühne. Bewältigungsversuche eines Überwältgien, F. Klett, Stuttgart 1977). 池内紀訳『罪と罰の彼岸』法政大学出版局、1984年

***Ryn Z. et Klodzinski S.
An der Grenze zwischen Leben und Tod. Erne Studie über die Erscheinung des
 «Muselmanns» im Konzentrationslager, in «Auschwitz-Hefte», vol.1,Weinheim e Basel 1987.

****Levi, P.  Se questo é un uomo. La tregua, Einaudi, Torino 1995 (4a ed.; la ed. rispettiv. De Silva, Torino1947 ed Einaudi, Torino1963). 竹山博英訳『アウシュヴイッツは終わらない』朝日新聞社、1980年、竹山博英訳『休戦』朝日新聞社、1998年




自粛

 

疫病の通過が続いている……
過越の時……

家に籠もるのを
自粛
などと呼び慣わしているようだが

家に籠もっていられないことをこそ
自粛
と呼んできたわたしは
ちょっと
片腹痛いような
こそばゆいような

わたしが
よりいっそう
わたしで居られる機会を
放棄
することをこそ




まだ辞書でなかった頃の



その辞書が
まだ辞書でなかった頃の
家から
ちょっと離れた
小山のある
公園に亭々と立っていた松が
風に鳴っていた
音

ときどき耳底に鳴るのは
なんの音?
と
考え続けてきて
ようやく
辞書のたどり着いた
まだ辞書でなかった頃の
記憶




鏡面には指紋を


  
なかには
とても美しいヌード写真もある

ちょっと甘いですけれど
ここで
脱いでもらえます?

固めの
この
かき氷のエメラルド色が
もっと
引き立って
見えると思いますから

鏡面には
指紋をつけないように
ね




とってもいい音のするのを




封筒がとどくと鳴る
宙の
なにか妙にはればれしい
麦秋ごろの
畦道の乾いた土の
サクッと焼けた
焼き菓子のそれのような
崩れ

まだまだ
その時間は
来ない

だから緊張していたほうがいい
鈴は
とってもいい音のするのを
きっと
買ってきてもらえるから





クロエ



お菓子を食べたくなるとき
クロエ
きみはたぐいまれな猫族
甘めのチョコレートのかかった
星形や
半月形のクッキーを
ぼくのてのひらから蛇のようにたくみに取って
クロエ
見る間もなく
もう飲み込んでしまっている
猫でなどない
クロエ
この世を破壊しつくせる大きさになるまで
養育がぼくに託された
魔界からの王子


(これはなにを語っているんだろう?
(書き手にもわからない
(いつものように自動書記しているだけだから
(意味なんて
(何ヶ月も経って読み直してから
(ちょっとずつわかってくるだけで