2021年4月7日水曜日

さくら花ちらぬ梢に

 


おおかた

染井吉野の桜も散ってしまったから

というのではないけれども

 

さくら花ちらぬ梢に風ふれててる日もかをる志賀のやまごえ*

 

定家の歌を思い出してみると

ちらぬ

という否定を以て

桜の花の

今あるさま

意識につよく映し出してくる悪戯っぽさに

ことば遣いの

あゝ なんという若々しさ…

と楽しんでしまう

 

そうして

“てる日もかをる”

来るのだ!


志賀のやまごえ

まで

行ってしまうのだ!

 




*藤原定家「花月百首」中「花五十首」より。






高木くんほど




はじめて出会った詩人は

たぶん

高校時代に同級生だった

高木くん

 

髪の毛がちょっと薄くて

女の子ふうな感じの

すこし長い顔で

華奢で

小さめで

ちょっと猫背だった

 

昔もいまも

じつは

小説にしか興味のないぼくは

おなじクラスになった高木くんと

―へえ、詩を書いてるんだ!

―へえ、小説を書いているんだ!

とことばをかわしあい

いっしょに雑誌でも作ろう

と決めた

 

なにせ

ガリ版刷りするのだ

小説なんて

短編だとしても

ガリガリ文字を記していくなんて

いっぱいすぎて面倒くさいから

詩なんて書かないぼくも

そんじゃあ

詩にすっかナ!

と詩にした

 

ちょうど

ランボーを読んだばかりで

小林秀雄訳と堀口大學訳とを

あれこれ

読みくらべ直したりしていたから

そんじゃあ

『地獄の季節』ふうに

書いたるかナ!

書いたった

絵画とか書くこととかでは

生まれつき

やけにマネがうまいので

小林秀雄訳ふうの

ランボーふう

なんざ

オチャノコサイサイだった

そんな借り物文体で

あろうことか!

詩への訣別を歌ってやったのだ!

まだ17歳だったが

ランボーは20歳で詩に訣別したから

ぼくのほうが

ちっとだけ早かったぜ!

といい気持ちだった

 

高木くんは

「瑞枝」という詩を書いた

春の木の枝先の芽がウンヌンというところへ

関わりを持ちたくても

持てなかった女の子を絡ませた

やけにメメシイ感じの詩で

軟弱とか

文弱ってことばは

こういうヤツのためにあるんだな

などと思ったが

―ふうん

とか

―繊細だね

とか

―やわらかいところを見ているんだね

とか

なんとか言って

褒めているような

誤魔化しているような

それとなく馬鹿にしているような

後年おおいに役立つことになる技術のエグゼルシスを

はじめて

やってみていた

 

どうみても

立原道造ぶった詩なのだが

道造してるよねえ!

なんて言ったら

傷つけちゃうかもしれないと思って

言わないでおいたものの

ひょっとして

道造してるよねえ!

なんて言ってやったほうが

高校生相手にはよかったかもなア

と思わないでもなかった

こっちだって高校生なのだが

なんだか高木くんは

若者の脆弱さをよく体現していて

ちょっと気を遣わないではおれないような

そんなところがあった

なんせ

華奢で

小さめで

ちょっと猫背で

髪の毛がちょっと薄くて

女の子ふうな感じの

すこし長い顔の

高木くん

だったから

 

続けてもよかったし

続けられもしたはずだが

おたがい毛色が違うと感じあったためか

雑誌はたった一号で終わり

それ以降

たがいの書き物を見せあったりさえしなくなり

それどころか

連絡もとらなければ

おたがいの消息もたがいに全く気にせず

卒業後もほとんど思い出しさえしなくなったが

といえば

高木くんの

あの「瑞枝」だなア

とは

いまでも

よく思ったりする

 

髪の毛が

なァ

高校生にして

すでに

ちょっと薄かったからなァ

いまごろは

きっと

剥げちゃってるだろうかなァ

とは

思う

ものの

 

高木くんは

目が

きれいだった

 

その後の歳月

何人もの詩人たちに出会ったが

高木くんほど

きれいな目をした詩人に出会ったことは

一度もない





2021年4月5日月曜日

お先にねひとりでね

 

 

なんであれ

かんであれ

生き生きしている

生きている

活力がある

活気がある

のがいいとされる偏向思想のこの世の中で

 

悪いけれど

死んでいる

ぼく

お先にね

ひとりでね

 

肉体を(中古車のように)

維持してるけど

ぼく

死んでいる

お先にね

ひとりでね

 

死が近い

とか

死にそうだ

とか

そういうのなら

人生を振りかえらなきゃ

とか

わが生涯の真善美を

ちょっとは抽象的にとりまとめなきゃ

とか

なるのかも

しれないけれども

死んでいる

ぼく

お先にね

ひとりでね

 

だから

人生なんて振りかえらない

真善美ももういらない

真のじぶんも

偽のじぶんも

まぜこぜのままで

いっそう

賑やか

 

すべては終わって

片付けも

しないで

すべて

ほっぽり出しで

死んでいる

ぼく

お先にね

ひとりでね





ニッポンもセカイも

 

 

この10年

どころか

15年ぐらい

ひょっとしたら

20年ぐらい

世の中とは

まったく

1ミリさえも

響きあえなくなっていたので

昨今のウイルス騒ぎも

ちょっと

風向きがかわった程度にしか

感じられては

いない

かも

しれない

ぼく

 

ウイルス騒ぎの

はじまる前のほうが

よほど

ニッポンも

セカイも

異常だったよ

 

なにを

狂騒してるんだよ

思わない日は

なかったよ

一日も

たったの

一日も

 

どの日も

どの年も

ただ

くだらなかったよ

ニッポンも

セカイも





身と心を焼き捨てればふたたび

 

 

むかしなら旅と呼んで

うれしがった

身と心の移動を

まったく

うれしがらなくなって

幾年?

 

どこへ行ってみても

あたりまえに

目がものをとらえ

肺が空気を吸い続けることに

なんだか

がっかりしてしまう

 

どこへ行ってみても

ひとは金儲けばかり考え

ちいさな差異づけに心労し

無数の人体から選び出した一体を

必死に差別化して称揚しあい

むかいあって蕎麦を食べていたりする

 

心の細胞のひとつひとつが

つぎつぎ脱皮するように

はじけるように旅していた頃の

あの愚かさやおさなさは

戻ってくるだろうか

身と心を焼き捨てればふたたび?





となりクラスのあの女の子みたいな

  


新大阪駅から京都駅へ

むかう

新快速を待ちながら

しずかな大阪のひとたちと

ホームで並ぶ

 

東京びとの

わたしは

大阪をどう扱っていいか

正直

わからない

 

なんども行って

大阪なんか知っている

思う時もあるが

なんだか

まるでわからない

思う時もある

 

いずれも

思いのなかだけのこと

 

身に染みてくるほどの

つきあいは

もう

大阪とは

持たないだろう

思う

 

嫌いではない

興味がないのでもない

 

かりに

好きでも

かりに

興味があっても

どうにもならない

なぜか

これ以上

深く知りあえない

 

となりクラスの

あの

女の子

みたいな





さらに地図を失って

  


さらに地図を失って

四方八方

までは見まわさないものの

三方五方ぐらいは

視野におさめてみながら

 

世界(などと一纏めにできると思い込みやすい…)

という

膚のすぐ表面からはじまる空間が

いよいよ

わからない

 

わからない

 

認めてしまう

いよいよ

 

いよいよ

 

はじめてのホテルで

天気予報だけを知ろうとして

つけてみると

テレビはダイジェスト版の歌番組のようなものを流していて

わたし

あなた

大切

恋しい

この愛を

いまはただ

永遠

などの単語が

しっとり

散りばめられて

 

時が流れる

 

季節(とき)が流れる

城砦(おしろ)が見える

無疵なこころが何處にある

 

ランボーの詩が

小林秀雄の

定訳になる前の

1930年白水社版の訳で

ポップスの単語たちの

むこうに

遠い白壁のように

見えている

はじめの二行は

中原中也がかっぱらって

漢字だけ直して

じぶんのものにしてしまった

 

いよいよ

わからないよ

世界よ

メモしたかったのだが

 

さらに地図を失って

書き出して

しまって

 

見えている遠い白壁は

いくつもある

 

やがて

わたしたちは

つめたい闇のなかに沈んでいくのだろう

さようなら、

あまりに短かすぎた

わたしたちの

夏の

激しいひかりよ!

 

これは

ボードレール

 

永遠よ、虚無よ、過去よ、暗い深淵よ、

飲み込んだ日々をどうしてくれようという、おまえたちなのか?

言ってくれ! あれら至上の恍惚を返してくれるのだと。

おまえたちがわたしたちから奪ったあれらを。

 

おお! みずうみよ! 押し黙った岩々よ! 洞窟よ! 暗い森よ!

おまえたちのことだけは、時も寛大に扱い、

若返らせさえもするのだから、おお、美しい自然よ、

この夜の、せめては思い出だけでも、守っていっておくれ!

 

これは

ラマルティーヌ