2021年4月21日水曜日

その八重桜の下に

 

 

枝を何本も棚のように横に伸ばしているので

その八重桜の下に行くのが好きになった

花の満開の時には花の屋根がひろがり

若葉のひろがり出した頃には若葉の屋根となった

 

むかし庭のこんな八重桜の下で毎日を過ごし

花の満開の時にはミルクを飲みビスケットを齧り

若葉の広がり出した頃には柏餅を食べたりした

そんなあれこれをいくつもいくつも思い出すので

その八重桜の下に行くのが好きになった

 

八重桜の庭のある家になど住んだこともなく

その下でミルクを飲んだりビスケットを齧ったり

柏餅を食べたりして過ごしたこともないのに

そんな人生であったかのように思わせてくれるので

その八重桜の下に行くのが好きになった






2021年4月7日水曜日

確固としている くっきりしている

 

ひとに会いたい

とか

どこかへ行きたい

とか

そんな欲望を

かならず持っているのが

人間では

スタンダード

なの

らしい

 

昨今の言い方なら

デフォルト

とか

言ったらいい

のか

 

自己点検

してみると

ぼくは

べつに

ひとに会いたくないし

どこかへ行きたくもないし

と

わかる

 

確固としている

くっきりしている

べつに

ひとに会いたくないし

どこかへ行きたくもないし

と

いうことが

 

こわいかもしれないよ

こういう

ひと





空気の音

 

 

空気の音が

いつも

聞こえている

 

ひょっとして

耳のなかを流れる血の音かもしれないが

それもひっくるめて

空気の音

ということに

している

 

しずかなところでは

よく

聞こえるが

けっこううるさいところでも

聞こえる

 

わたしにとっては

これが

真理

みたいに感じられていて

これさえ

聞こえていれば

こころ

おだやかで

いられる

 

他人の声など

いらない

 

意味や

理屈や

感情を乗せようとした

声など

もっと

いらない





とらえどころがない


 

 

桜が散ったあとは

どんなふうに

生きていったものだったかな

と

むかしむかしの

あの年

この年

を

きまぐれに

思い出してみたり

も

する

 

こんなことが

けっこう

楽しい

 

藤をこころ待ちに

した

ものだった

かな

 

牡丹を

わくわくしながら

日を送った

ものだったかな

 

そうして

今年は

どうしたもんかなあ

どんな

こころ持ちで

日を

送っていくのかなあ

と

あいかわらず

定まらない

こころ

 

ぼんやり

ぼんやり

生きていても

いなくっても

いいような

ヘンな

じぶんを

やっている

 

とらえどころがない

じぶんを

やっている





さくら花ちらぬ梢に

 


おおかた

染井吉野の桜も散ってしまったから

というのではないけれども

 

さくら花ちらぬ梢に風ふれててる日もかをる志賀のやまごえ*

 

と

定家の歌を思い出してみると

ちらぬ

という否定を以て

桜の花の

今あるさま

を

意識につよく映し出してくる悪戯っぽさに

ことば遣いの

あゝ なんという若々しさ…

と楽しんでしまう

 

そうして

“てる日もかをる”

と

来るのだ!


志賀のやまごえ

まで

行ってしまうのだ!

 




*藤原定家「花月百首」中「花五十首」より。






高木くんほど




はじめて出会った詩人は

たぶん

高校時代に同級生だった

高木くん

 

髪の毛がちょっと薄くて

女の子ふうな感じの

すこし長い顔で

華奢で

小さめで

ちょっと猫背だった

 

昔もいまも

じつは

小説にしか興味のないぼくは

おなじクラスになった高木くんと

―へえ、詩を書いてるんだ!

―へえ、小説を書いているんだ!

とことばをかわしあい

いっしょに雑誌でも作ろう

と決めた

 

なにせ

ガリ版刷りするのだ

小説なんて

短編だとしても

ガリガリ文字を記していくなんて

いっぱいすぎて面倒くさいから

詩なんて書かないぼくも

そんじゃあ

詩にすっかナ!

と詩にした

 

ちょうど

ランボーを読んだばかりで

小林秀雄訳と堀口大學訳とを

あれこれ

読みくらべ直したりしていたから

そんじゃあ

『地獄の季節』ふうに

書いたるかナ!

と

書いたった

絵画とか書くこととかでは

生まれつき

やけにマネがうまいので

小林秀雄訳ふうの

ランボーふう

なんざ

オチャノコサイサイだった

そんな借り物文体で

あろうことか!

詩への訣別を歌ってやったのだ!

まだ17歳だったが

ランボーは20歳で詩に訣別したから

ぼくのほうが

ちっとだけ早かったぜ!

といい気持ちだった

 

高木くんは

「瑞枝」という詩を書いた

春の木の枝先の芽がウンヌンというところへ

関わりを持ちたくても

持てなかった女の子を絡ませた

やけにメメシイ感じの詩で

軟弱とか

文弱ってことばは

こういうヤツのためにあるんだな

などと思ったが

―ふうん

とか

―繊細だね

とか

―やわらかいところを見ているんだね

とか

なんとか言って

褒めているような

誤魔化しているような

それとなく馬鹿にしているような

後年おおいに役立つことになる技術のエグゼルシスを

はじめて

やってみていた

 

どうみても

立原道造ぶった詩なのだが

道造してるよねえ!

なんて言ったら

傷つけちゃうかもしれないと思って

言わないでおいたものの

ひょっとして

道造してるよねえ!

なんて言ってやったほうが

高校生相手にはよかったかもなア

と思わないでもなかった

こっちだって高校生なのだが

なんだか高木くんは

若者の脆弱さをよく体現していて

ちょっと気を遣わないではおれないような

そんなところがあった

なんせ

華奢で

小さめで

ちょっと猫背で

髪の毛がちょっと薄くて

女の子ふうな感じの

すこし長い顔の

高木くん

だったから

 

続けてもよかったし

続けられもしたはずだが

おたがい毛色が違うと感じあったためか

雑誌はたった一号で終わり

それ以降

たがいの書き物を見せあったりさえしなくなり

それどころか

連絡もとらなければ

おたがいの消息もたがいに全く気にせず

卒業後もほとんど思い出しさえしなくなったが

詩

といえば

高木くんの

あの「瑞枝」だなア

とは

いまでも

よく思ったりする

 

髪の毛が

なァ

高校生にして

すでに

ちょっと薄かったからなァ

いまごろは

きっと

剥げちゃってるだろうかなァ

とは

思う

ものの

 

高木くんは

目が

きれいだった

 

その後の歳月

何人もの詩人たちに出会ったが

高木くんほど

きれいな目をした詩人に出会ったことは

一度もない





2021年4月5日月曜日

お先にねひとりでね

 

 

なんであれ

かんであれ

生き生きしている

生きている

活力がある

活気がある

のがいいとされる偏向思想のこの世の中で

 

悪いけれど

死んでいる

ぼく

お先にね

ひとりでね

 

肉体を(中古車のように)

維持してるけど

ぼく

死んでいる

お先にね

ひとりでね

 

死が近い

とか

死にそうだ

とか

そういうのなら

人生を振りかえらなきゃ

とか

わが生涯の真善美を

ちょっとは抽象的にとりまとめなきゃ

とか

なるのかも

しれないけれども

死んでいる

ぼく

お先にね

ひとりでね

 

だから

人生なんて振りかえらない

真善美ももういらない

真のじぶんも

偽のじぶんも

まぜこぜのままで

いっそう

賑やか

 

すべては終わって

片付けも

しないで

すべて

ほっぽり出しで

死んでいる

ぼく

お先にね

ひとりでね