2021年5月7日金曜日

季節感を失ったあなたは



もう冬

なのに秋風があたたかく吹いて

澄む

ショカ、ショカ、……

ちいさなカップで

ちいさなコーヒーを

飲む

飲む

ちいさく

かたい人生

なんて

推薦していた

帽子かぶったナントカ先生

その先生の家

の

庭に

カエル

よく出て鳴いてたなぁ

キロキロ

って

鳴くカエルで

なんていうのかなぁ

調べなかった

秋風が吹く初夏の初雪を愛でて

感謝していこう

ぼくははやく起きてひとっ走りしてきますから

もう少し寝ていなさい

もう少し

季節感を失った

あなたは





2021年5月6日木曜日

エレベーターをテーマにしながら一連四行で書きつつ一連ごとの文の区切り付けにはこだわらないようにすることのエチュード

 

 

必要があって住むようになった今の住居は

たまたま高層階にあるので

外に行くにはなにをするにも

エレベーターでの乗降が欠かせない

 

建物に住む際には一階びいきで

ずっと一階やせいぜい三階に住んできた私には

はじめこれがもどかしく面倒で

ホールで待つのがつらくて堪らなかった

 

他の住人といっしょに箱に乗るのも大嫌いで

人が待っていたりすると踵を返して

ウイルス騒ぎなどはじまる前から

進んでソーシャル・ディスタンスを取ってきた

 

それでも慣れるということはあるもので

エレベーターが最上階から下りてくる場合にさえ

到着するのを待つのは苦ではなくなった

他の住人たちと乗りあわせるのは今も嫌だが

 

それでも無愛想な顔をして耐えられるようになった

このあいだのある夜も遅くなってから

わずかな買い物に出て帰ってきて

たったひとりでエレベーターに乗ることがあった

 

さいわいなことに他の住人は現われず

あの金属製の非情な箱に乗って上昇していった

箱の中は汚くはないが薄汚れも目に入る壁に囲まれていて

長く乗っていたら人間性が剥がれ落ちていくような

 

人間にふさわしいとはいえない異様な空間である

エレベーターから降りる時のことだった

「○○な時間を生きる」といった表現がよくなされるが

あれは全く間違っていると強く気づいた

 

時間を生きるのでなどなく

時間は私によって生きられるようなものではなく

時間が私を生きているのだ

時間こそがたまたまこの私ともなって

 

私を生きるかのようなことをしてみているのだ

あまりに強くはっきりとそう気づいた

気づいてみればいろいろなことがはっきりと

わかってくるようなあまりに遅すぎた認識だったが





やわらかくなったバターを塗って

 

スーパーで買える安い食パンを

ちょうどいいぐあいに焼いて

すこし前に冷蔵庫から出して置いた

やわらかくなったバターを塗って

 

端っこから少しずつ齧るのが大好きで

こんなシンプルでいながら

こんなうまいものはないと思うし

こんな軽い幸福感もないと思う

 

いろんなところに住んだが

どこの住まいでも食卓で

午後のはやいうちとか

夕暮れのちょっと前とか

 

齧るよろこびを堪能したなあ

濃く重くなってきた夕陽が

ソファやテーブルクロスに当たったり

トーストに当たって幸せだったなあ





2021年5月5日水曜日

わたし、時間

 

  

エレベーターから降りる時のことだった

世間では「○○な時間を生きる」といった表現がよくなされるが

あれは全く間違っている

そう強く気づいた

時間を生きるのでなどなく

時間はわたしによって生きられたり

生きられなかったりするようなものではなく

時間こそがわたしを生きている

時間のほうこそが主体で

たまたま

このわたしなども指の先の爪の伸びるようにして生きてみている

わたしは

などと自己認識せず

わたし、時間は

などと自己認識するほうが正確なのだ

あまりにはっきりと

こう気づいた

 

気づいてみれば

いろいろなことが明瞭になってくる

遅すぎたといえば

あまりに遅すぎた認識の獲得だが

ようやく

この地点に来た

じぶんが主体であるかのように妄想する幻想を時間に譲渡して

ようやく

すべてがほんとうにはじまる






不仕合せの時草臥るる者は


 

  

現実が一つ崩れたあとも、すぐに別の現実が結晶しはじめて、

新たな秩序を作りだすという観念に、いつのまにか

馴れはじめている自分に気づいた。

三島由起夫『奔馬』

 

 


 

「不仕合せの時草臥るる者は益に立たざるなり」

と

『葉隠』にはある

 

はなはだしい表現矛盾にもかかわらず

この土俗社会によって

自粛を求められ

強いられ

家に閉じ籠もりがちになるのを余儀なくされて

パソコンばかりに向かわされて

間接的な教えや指示を受け続けの学生たちともずっと

関わり続けているが

中には

こんな状態をずいぶん真に受けて

疲れてしまったり

やられてきてしまったりしている者もいる

 

そんな学生たちに

個別に

ひそかに

こんなことを言い添えることも

ある

 

 

理性や知性に関わる「勉強」は、どちらにしても「閉じ籠もる」ことや外界からの刺激の遮断が必要になりますから、社会全体が自分の勉強姿勢を後押ししてくれている時期だと思って、この時期を積極的に利用しようと考えてみたらいいでしょう。

学生にとっては、じつは、今のような時期というのは、勉強や読書や自分つくりの打ってつけの時期だと思います。

 

 

情報過多も極まり、なにかというとネットに触れるのを強いられる時代だからこそ、古典を「本」のかたちで読んでおくといいです。

あなたが法学部だからということでもないけれど、ルソーの三部作やモンテスキューの「法の精神」、ホッブス、ロックなどは、若いうちに本物を読んでおいてください。マルクス「資本論」も、ハンナ・アレント「革命について」「人間の条件」「全体主義の起源」なども。他にも、もちろん、もっともっと。

 

教科書にまとめられた説明など、嘘っぱちですからね。つねに原典を読むようにしてください。

原典にはまったく違う印象があり、無濾過の酒のように筆者のいろいろな思惑や迷いや過誤や、まだ十分に展開され切らない、いろいろな発想の芽が書き込まれています。

自分の頭の中に、ジャンルの違うたくさんの引出しを作っておくこと。これは、少しでも若いうちに準備していかないといけません。

コロナの嘘やインチキも、ぜひ、自分でネットで調べて暴いておいてください。自分で調べ、考えない人間は、どんどんと消されていくのがわかってきます。

今はナチス政権下のような情報戦争状態にじつは入っています。

ウルリヒ・ヘルベルト「第三帝国」などを参考にしながら、現代社会と過去の全体主義下の社会とのあまりの共通性に気づいて、今後もっとひどくなっていくはずの世界への準備をしておきましょう。

ナチス時代とソ連のスターリン政権下の社会の検討は、今後、重要性を増します。

テレビや御用コメンテーターや御用学者、昔ならソフィストと呼ばれたであろう金儲け知識人たちの言葉にばかり従って、あなたが出す疑義になど耳を傾けず、端から否定してくる人たちなど、もうさっぱりと捨てて、自分と親しい人たちだけをなんとか生き延びさせることを考えて、せっかくの歴史的好機をムダにせず、大勉強にかかってください。

 

 

そういえば

『易経』第二十九の卦〈習坎〉

には

こうある

「困難に出会った際、人が誠実であれば、心はその状況の意味するところを洞察できる。ひとたび問題のうちにある神秘を掴んでしまえば、私たちのとる行動は自ずから成功するであろう」

 

また

ジョン・リリーは

『サイクロンの眼』で

こう言う

「われわれは、われわれ自身をこえて成長するために、あるいは、われわれが成長を許すような経験を得るために、われわれ自身を制限している信念をも超えてゆかねばならないのである」

 

また

カルロス・カスタネダ『ドン・ファンの教え』で

ドン・ファンは

「その道はこころheartを持っているか?

 その道を歩み続けるとか、その道を去るべきだとかいったあなたの決断は、恐れや野心から自由なものでなくてはならない。

 その道はこころを持っているだろうか? もしそうであれば、その道はよきものである。もしそうでなければ、その道は役に立たない。

もっとも、どちらの道もどこへもみちびきはしない。

しかし、一方はこころを持っており、もう一方はこころを持っていない。一方の道は、あなたがその道を歩み、その道とひとつになっているかぎり、喜びであふれる旅を約束するであろう。前者はあなたを強くし、後者はあなたを弱くする」

 

そうして

もちろん『老子』(上篇、第十二章)

では

「賢者は感じるところに従い、見るところには従わない。彼は後者を離れ、前者を選ぶ」






その時はふと

 

 

短いことばで

やりとりをするうち

詩歌のはなしなど

出てきて

 

詩というものは

ほんとうは

どんなものでしょう

と

問われるでもなく

問われないでもなく

持ち出されて

 

ふと言っておきたくなったのは

 

説得しない

説得しようとしない

ことば

なのかな

 

と

いうことだった

説得の

説得の思いの

あまりのなさに

異様な驚きを覚え

痺れるようになってしまい

それが

いつまでも

見えないところで続くような

そんなことば

なのかな

 

と

その時は

ふと





2021年5月4日火曜日

ぼくはほとんどマスクをしなかったけれど


 

 

愚かな人には、ただ頭を下げよ

カール・ポランニー

 

愚かさとは、結論せずにはいられない心の動きよりなる

ギュターヴ・フロベール

 

 

 

あぶないウイルスが広がったとか言われ

話すときに口から飛ぶ唾に

そのウイルスはいっぱい入っているからとか言われ

だからひとと会うときにはマスクをして

ウイルスが飛ぶのを防がないといけないとか言われた

2020年

ぼくはほとんどマスクをしなかったけれど

ついにウイルスに感染しなくて

アルコールを手につける消毒もしなくて

日常生活はいつもより平穏で

まあ悪くなかったな

2020年って

そう思って

年を越えたのでした

 

2020年の2月3月の頃までは

それでも

するようにしてたなぁ

マスク

あの頃はウイルスの出現を信じてたし

人間が地球環境を痛めつけ続けているものだから

いろんなウイルスが報復してきても

ぜんぜんおかしくないと思っていたから

ちょうど花粉症の時期にも重なって

マスクは花粉避けに有効だから

するようにしてたなぁ

マスク

4月のはじめ頃

ヒノキ花粉が少なくなるまでは

 

でも2020年の4月中には

ウイルス騒ぎがインチキだとわかっていたので

初夏をむかえて暑い日も出る頃は

もうマスクなんてしなくなっていた

どうしてインチキがわかったかって言えば

それはそれ

情報収集の時間と忍耐力が違うもの

1日24時間は数台の端末で情報収集し続けで

少なくとも8時間ほどはウイルスのことだけ追う

そういう2020年だった

 

情報というものを

どれは真

どれは偽

と判定するのはシロウトのすること

ことに自分の専門外の領域についての情報は

そもそも真偽を定める尺度を持たないのだから

真偽判定をすること自体がナンセンス

だから

いちいち真偽判定をしようとはせず

とにかく多量の情報を意識の中に流し続ける

ウイルス学者や感染症学者が言っている情報も

政府機関が発する情報も

市井の科学マニアが出してくる情報も

ウイルスはM567星雲からの超小型宇宙兵器だと断じるような

どんなにアホらしく見えるトンデモ情報も

とにかくすべてを自分の意識に通して

記憶領域や無意識領域に投入させておく

 

そうすると

ある程度以上の情報量になったあたりで

個々の情報間にかならずそれなりのメタ構造が浮き上がってくる

比喩的に言えばおのずと構造主義的分析が起動し

いわば情報領域における一般意志のようなものが形成されてくる

これはルソー的アプローチによるいいかげん説明だが

ヘーゲル的アプローチによるいいかげん説明をしようとするならば

たいていの人が読み終えない『精神現象学』の後半の概念で言えば

すべての「本質の本質」の浮かび上がりということになる

もちろんレヴィ=ストロースが使った構造主義的炙り出しという認識で

十分といえば十分なわけだが

 

どんな怪しい曖昧なトンデモ情報でさえ

他の多量の情報の中に投入すれば価値ある機能をしてくれる

いわば偽情報というものの構造的有用性ということになるわけだが

この有用性を発揮させるには

まずは途方もなくタフなアットランダムな多量情報への

意識のさらし続けが必要とされる

早急な結論づけを避け続けて

流入してくる情報を理知領域で飲み込み続け

そうして精神が本来持っている

構造主義的本質看取能力を起動させること

 

思い出されるギュスターヴ・フロベール

「愚かさとは、結論せずにはいられない心の動きよりなる」

先端科学の成果で世間では権威と見られる科学論文誌にあっては

10年もすれば論文の9割が誤っていたとわかり

いつのまにか消えていっているという

人間精神はものそのものを扱うことができないので

あらゆる思考は表象によってのみ行われるが

表象化の手段や過程はまた別の科学と仮説によってのみ準備され機能する

科学知はすべてが表象から成っていてそもそも永遠に仮説でしかないが

2020年に煽られたウイルス騒ぎを構成した仮説の山は

はて

はてはてはて

どのくらいすれば誤った表象作業の結果だったと暴かれ

偽情報の堆積に過ぎなかったと露呈されるだろうか

2021年においても未だに

ガリレオの主張は世間にひろく受け入れられてはおらず

製薬会社の御用学者や御用医師や大企業用広告ボックスたるテレビが

天動説を連日連夜がなり立てているようだが