2021年5月18日火曜日

ちゅう

 

愚者がウイルス騒ぎを信じ込み

反日テレビに騙されて愚の骨頂のPCR検査を求め

ワクチン接種も必要だなどと思い込むのは

まあ

わかりやすい

愚者なのだから

 

しかし

さほど愚者でもないように見えた知りあいたちが

同様にウイルス騒ぎを信じ込み

論理破綻の極みのPCR検査を求め

ワクチン接種を急げなどと言い出すのを

この一年つぶさに観察し続けてきて

連中やはりただの馬鹿だったんだなとわかり

人間関係から切り離すことにした

 

親類縁者であっても

2020年はじめから2021年初夏の現在に到るまで

いちども会ったこともなければ

電話したことさえない

 

電話でも感染するらしいよ

だいたい相手の波動からの感染はいちばん怖いらしいよ

などと

馬鹿どもの思い込む論理を増幅して押しつけてやれば

相手はテレビや御用学者だけを信じ込む究極の馬鹿なのだから

もう反論もなにもできない

 

愚者を断ち切るには

武漢ウイルス様様な2年間だった

武漢ウイルスと呼んで不足なら

世界を2年間牛耳ったあの悪質な男ファウチの名を冠して

ファウチウイルスといってもいい

 

ともあれ

必要のない人間関係をあぶり出すには

絶大な効果を発揮した捏造ウイルス騒ぎだった

じつはこの騒ぎのあいだに世界規模の権力争奪戦が行われ

巷の一般民草にわさわさ騒がれると面倒なので

それに蓋をするための大がかりなオペレーションだった

 

感染感染感染…

と

アナウンサーのしゃべりの練習みたいでご苦労さまな2年間だったが

(日本語発音のろくにできない田舎者の菅義偉などには

(もちろんいい練習だろうが)

まったく

オイ

オイ

オイ

なんだよ

感染ちゅうのは(菅義偉的しゃべり)

ウイルスが「侵入」してから

次に「定着」

それから「トランスミッション」(この時点では無症状)が起こり

症状が出た時点でようやく「感染」

ちゅう基本認識があるっちゅうのに

「無症状感染」なんちゅうフェイク概念を

よくもまあ

捏造したもんだなと2020年から思っていたが

製薬会社からたんまり裏金を貰っている御用学者たちは

平気の平左でそれを喧伝しちまうもんだから

それが反日テレビでたちまち伝播して

愚者たちにぞわぞわと広がっていったっちゅうわけ

そう言うと

欧米の大学や大病院や機関がちゃんと言ってるじゃないか

と反論してくる愚者どもがごそごそ出てくるのだが

はいはいはい

そうね

ロスチャイルド+ロックフェラー+モルガン…が作った

大学や大病院や機関がね

そう言うと

わあ陰謀論だ陰謀論だ陰謀論だ

とたちまち上から目線に立って叫き出してくるのだが

ぼく自身が陰謀側に立って策略を弄してきた過去があるので

陰謀論

マジでありますけどね

と

これは言わずに

おく

 

本当の陰謀については

言えないんだよ

目の前にいる愚者をこれからも手玉に取っていかないといけないんだもの

人類は

果てまで

目の前の人間をだまくらかしていかねばならない

そういう仕組み





2021年5月12日水曜日

体験してきたのでわかる



  

すてきなことはみんないつか終わるもの

村上春樹『スプートニクの恋人』

 

 


こうして生きてるだろ?

あしたもあさっても

だいたいはこんな感じで

続いていくと思うだろ?

けれどこういうのが

ある時ぜんぶ終わるのを

ぼくはよく知っている

なんども引越しをしたので

ある日ほんとうに

ぜんぶ変わってしまうのを

体験してきたのでわかる

人が死んでその人の家を

かわりに整理したこともあって

終わるとはどういうことか

体験してきたのでわかる

悪くなかった家族なのに

ある時爆発のように壊れて

ちりぢりになって二度と

戻らなくなってしまうのも

体験してきたのでわかる

大事にしてきたものが

薄いガラス細工のように

容易に砕け散って二度と

戻らなくなってしまうのを

体験してきたのでわかる

だから大事なものは

二度と持ちたくなくなるのも

体験してきたのでわかる

みんな死んでしまえばいいのに

という綾波レイのことばが

じぶんの内奥のことばとして

ずっと共鳴し続けていくのも

体験してきたのでわかる





夢のなかで

 

夢のなかで

なにか

とてもいい詩を書いたのだけれど

目がさめたら

忘れてしまっていた

 

前世に生きた

あんなにたくさんの時間も

生まれたら

忘れてしまっていた

ように





2021年5月10日月曜日

この世ってのはそうとうヘンだぞ

 

  

東京の町なかの商店街には

煙をまきちらしながら

焼き鳥を売っている店があって

子どもなんかも買い食いしてたりする

育ったところにはあれはない

ああいう文化はない

あれっていいなと思う…

 

札幌から出てきた人が

こんなことを書いてきた

 

ぼくの子どもの頃には

一本10円ぐらいだったかな

鶏皮なんかだと5円ぐらいかな

夕暮れになると一本だけ買って

友だちと食べながら帰った

焼き鳥屋のおじさんのとこには

いつも小学生がたかっていたなあ

 

そんな返信をしながら

夕暮れていく商店街の賑わいを

さらにガヤガヤさせるぼくら

子どもらの顔や声を思い出した

 

愛知県に住んでいた頃はね

みたらしっていうのもあってね

焼き鳥屋みたいにどこにでも

みたらし屋ってのが愛知にはあって

やっぱり子どもは一本だけ買って

食べながら帰っていくのさ

ぼくは小学一年生ぐらいで

なんだか夕陽のすごく赤い時代で

みたらしを口にぜんぶ入れて

もぐもぐネチョネチョさせながら

ちょっと本屋なんか寄っちゃって

店頭の週刊プレイボーイとか

平凡パンチとかをいっちょ前に手にとり

グラビアをパラパラ見ちゃったりして

お姉さんたちのハダカを見ながら

この世ってのはそうとうヘンだぞ

と自己教育してたものさ





まったく同じ歓声がイヤホンから

 

  

ふと

ゲルマニウムラジオを思い出した

子どもの時に作った

あれ

だ

 

電池もいらない

コンセントにつなぐ必要もない

それが感動的だった

 

半田ゴテだの

ドライバーだの

そんな工具を

はじめて駆使してつくったのは

たしか

ロケット型で

上のほうが赤くて

下のほうが黒

 

ロケットの上のほうに鉄の棒が出ていて

それを上下させると

チャンネルが変えられる

アンテナは下のほうから出ている電線で

これをあちこちに絡みつけて

電波を取るのだ

 

二段ベッドの二階に寝ている頃で

寝る時は天井が近いから

蛍光灯の布覆いのある電線に巻きつけたり

ほかの部分に巻きつけたりして

電波がよく取れるところを探した

 

夏なんか

まだプロ野球の続いているうちに

寝ないといけないので

ゲルマラジオの電線を蛍光灯に巻きつけて

野球中継をやっている局を探して

ワアワアいう歓声を聞きながら寝るのだ

居間のほうで親が見ているテレビ中継の歓声と

まったく同じ歓声がイヤホンから聞こえると

なんだかわからないが

すごく感動するのだった

テレビと同じ音が聞こえることに

感動するのだった





2021年5月9日日曜日

ゆうぐれにはすこし涼しくなって

  

 

Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more.

William Shakespeare《Macbeth》

 

 

 


ゆうぐれには

すこし涼しくなって

それも

気持ちがよかったが

すっかり夜になってみると

いくばくか

心持ち

暖かさが増してくるのだった

それも

気持ちがよかった

上着を着ないで

腕に持ちさえしないで

シャツ一枚のままで

外に歩きに出て行くと

だれも人はおらず

遠くにちらほら人影が見えても

いいぐあいに元気のいい

快活でさわやかな幽霊のようで

みんな初夏の空気のなか

どれもひとしく

宵やみのなかに彷徨い出てきた

ひとときの

歩く影たちなのだった



韻律あわせもしない行をふしだらに並べながら こんなふうにしているわけだから

 

  

ぼくは詩人ではないけれど

ランボーやアポリネールあたりで確立され

プレヴェールでさらに可能性を拡大された自由詩形式を

事の次第からというか

精神のなりゆきから

ずいぶん使わせてもらうことになったものだから

詩と呼ばれがちな書き物や

自己申告で詩だと主張したがりな書き物を

ずいぶんたくさん見続けてきている

 

その結果からいうと

日本の戦後の詩や

いまでは古新聞なみに黄色くなってしまって

結局似たり寄ったりでしかなかった現代詩なるものは

ずいぶん狭い詩観の実体化でしかなかったな

とやはり思う

 

とにかくセンチメンタルなんだ

日本の詩っていうのは

 

ちょっと皮肉を言ったり

わずかな発想の飛躍を書きつけたり

とにかく錯乱へと持って行こうとしたり

あるいはタニガワシュンタロウのように

感情や思いの宣伝コピーみたいな方向にまとめようとしたりと

まあ

そんなのは

どこの国でも詩のお得意の芸なんだが

身分をわきまえた小さな細工物を拵えようとするかぎりでは

それはそれで

面白くなくもない

そういうちっちゃな細工物を好んで眺める読者っていうのもつねにいて

それはそれで

需要と供給が成り立っている

 

中国詩やユゴーやホイットマンやミルトンやバイロンなどを

あまり読んでいなかった頃は

詩なんていうのは

ちっちゃな細工物であればいいんだろうな

と思っていたが

だんだんと古今東西の詩を知りひろげるにつれて

日本の戦後の詩界の偏向ぶりは

けっこう凄まじいものだ

とわかるようになってきた

そうして

はっきりと離れたわけだ

詩人たちからは

詩形式だけを適宜用いるようにして

ぼくなりにぼくの精神の役に立つようにしていこうと

 

それでも

今から15年前頃までは

ちょっと詩人たちの集まりに出かけていくと

非詩!

みたいなのを掲げる人たちが必ずいて

非詩!

にしか詩と呼びうるかもしれないなにかの顕われの機会はないと

かなり共有されていたものだけれど

いつのまにか

そういうアイロニカルな詩の探求者が消えて

いなくなっちゃったんだなあ


かわりに

センチメンタルな

あるいは自己体験みたいなものを書けば詩ですなどと

臆面もなく思い込んでいるような

ヘンな素朴派や自然派ばかりになっちゃったなあ

ひねくれた人ばかりを集めるハエ取り紙みたいな働きが

いわゆる現代詩にはあったけれど

なんか今現在の詩っていうのは

読書量も少なければ

海千山千の人生経験もなく

コルモピアで買ったシャツとかばかり着て

おずおずとチェーン店のプラスチック椅子で安コーヒー飲んでいるような

ウラナリみたいな人たちばかりの作物に

なっちゃった感じだな

 

なんて

言いながらぼくも

文章のように前から後へと読んでいけば

なんとなくそれなりにわかるような詩形式書き物を

韻律あわせもしない行をふしだらに並べながら

こんなふうにしているわけだから

人のことを批判はできないって

ことでは

あるんだけれどね