2020年3月19日木曜日

牧野博先生



人間がまともになるためには次の三つの条件のうちの
いずれかが必要である。軍隊に行くか、刑務所に入るか、
病気で長期入院するか。
松永安左衛門


子どもの頃の主治医に再会した
夢の中での話
ただの夢
子どもの頃の過去の記憶から合成された
意味もない、価値もない、脈絡もない、(……と言いたがるだろう?
世間よ、人間たちよ、知的な人びとよ、常識人たちよ、
だから先まわりして言っておく、ちゃんと留保を付けておくよ……
ただの夢の中でのこと

サウナのようなところだが、
それほど大きな部屋ではない。
せいぜい五六人しか、一度には入れないのではないか。
床に簡易ベッドがあり、横たわっている人がいる。
顔にタオルを乗せていたが、それが取られると牧野先生とわかった。
牧野博先生。

夢の中でも、牧野先生はもう亡くなっていると知っている。
なのに、こんなところでお会いするなんて、と思う。
先生ももうぼくのことは覚えていないだろう、と思いながら、
牧野先生…、と声をかけて、もうお忘れでしょうが、と言ってみると
牧野先生は私のことを覚えていた。
いやあ、覚えてるよ。長かったが、よく治ったね、と言われた。

私は十歳から十五歳まで慢性腎炎に罹っていた。
はじめ、全身に大きなおできができ、膿が出続けた。
ツワブキの葉がよいと祖母が言うので、祖母の家の庭だけでなく、
方々の野原や街の植込みの端などにツワブキの葉を取りに出かけた
この頃は腎臓の病気が原因とはまだわからず、
なんらかのアレルギー反応と診断され、体質改善の注射を毎週された。
おできは収まったが、今度は全身に大きな蕁麻疹が出るようになった。
あまりに酷い蕁麻疹で、顔に出ると小岩さんのようになる。
瞼は開かなくなるし、唇は三倍ほどになってしまって、水も飲めない。
ボクサーがひどく殴られた後のような顔になってしまい、
いったん症状が出ると、半日は収まらない。
どうして出るのかまったくわからない。
食べあわせやいちいちの食物のアレルギーなどが疑われたが、
当時の医学の知見では解明できなかった。
家から七分ほどの牧野医院に通い続けたが、セカンドオピニオンのために
東大病院にも慈恵医大にも慶応病院にも調べに行った。
どこの病院でも原因も治療法もわからず、
牧野医院のやり方で妥当なのではないかという結論になった。

やがて、心理的な反応から蕁麻疹症状が出るようになった。
日々の生活の中では、子どもである自分にとって、もちろん、
いやなことやつらいことやつまらないことなどがたくさんある。
宿題がいっぱい出ると「いや」だし、ジメジメしていると「いや」だし、
テストでいい点が取れないと「いや」だし、登下校で
荷物がいっぱいの時など「いや」だし、酒乱だった父がまた失敗して、
深夜に父母が言いあいをしているのも「いや」だったし、
実業家だった母方の祖父が父を何度となく救済してやったのを
母が「お父さんにおまえは足を向けて寝られないんだ!」と怒鳴って
酔って帰ってきた父の頭を踏んづけているのを見るのも「いや」だったし
それに対して怒り狂った父が母の肋骨を折ったり
耳を殴って聞こえなくさせたりする現場の隣の部屋にいて
布団で耳を覆いながら目を瞑って耐えるのも「いや」だった
父に愛想を尽かした母が私に「あれは人間のクズなんだからね、
あんな人間にだけはなっちゃダメだからね」
と父がいない時に毎日言い続けたのも「いや」だった
そこから徹底的な私への密過ぎる心的傾斜が母の心理に発生し
高校生になってちょっと親しい女の子ができても
喫茶店に呼び出して母が面談をして「あの子はダメね」と品評し
ママがちゃんとした子を見つけるからヘンな子に引っかかっちゃダメ」
と、これも毎日毎日念を押され続けるのも「いや」だった
後にギンズバーグが母との葛藤を歌った詩を読んだ時にも
彼のほうがよっぽど楽だったじゃないかとちょっと馬鹿にしてしまった

(そう、どうしてわけのわからない病気に「ぼく」がなったのか
(じつは、いまの私はわかっているんだよ、両親よ……
(どうして、世間も社会もいっさい認めない
底も深さも濃度もいまだに計測仕切れない魔窟のような魂の泥濘を
(「ぼく」が持つようになったのか……

毎月一回の血液検査
毎週の太い血管注射
毎日三回のたくさんの薬
寒くても暑くても湿っていても蕁麻疹とひどい顔の浮腫
完治はしないと言われていた。
一生うまくつき合っていくしかないねと言われていた
浅間山荘事件も病院の待合室のテレビで見た
三島由起夫の切腹自殺も健常者の甘えた所業としか思えなかった

あの頃
毎週毎週会っていた牧野博先生
月一回の血液検査の結果が届くと
看護婦さんがカルテにホチキスで裏向きに留めてあって
先生は「さあ、今回はどうかなあ…」と言いながら
ヒョイッと表に翻す
そうして健常者なら40以下の数値アスロがどうなっていたかを見
「おっ、下がってきた」とか
「わぁ、また上がっちゃったよ」とか
ちょっとしたお楽しみみたいに演出してみせる
はじめのうちは500を超えていた数値が
400台になった時はうれしかったが
それが300台になって今後はうまくいくかなと思ったら
また400台に戻ってしまうようなことがくり返されていくうち
どんなに静養を心がけても200台以下にはならないのが続くと
少年の心というのは深く深くこの世とも人生とも自分とも縁を切り出す
そんな一部始終に六年間つき合い続けてくれた牧野先生が
おや、
こんなサウナみたいなところに寝転んで休んでいらっしゃる……

そうだ、言っておかなければ
先生
ぼくはまだ奇跡的に生きているんですから
奇跡のように完治して以来まだ再発していないんですから
再発しないまゝまだ生きていけるのかもしれませんから
あの頃のこと
先生
ほんとうにお世話になりました
牧野先生

牧野博先生……






2020年3月16日月曜日

ラッキーでなければいけない




犬はいつもはつらつとしてよろこびにからだふるはす凄き生きもの
                                                                                             奥村晃作




一生うだつのあがらないサラリーマンだった父は
たった一度
独立しようとして
田舎に塗装工場を持ったことがあった

春になると
あたり一面に桃の花が咲く田園で
濃い桃色の花から花へ
ぐるりぐるりと歩きまわっているだけでも
飽きるということがなかった
桃源郷などということばを
まだ知らない頃だったが
子どものぼくには
そこは桃源郷そのものだった
ぐるりぐるりと歩きまわっているだけで
まったく飽きない
こんな場所は
めったにあるものではない

工場に番犬が必要だというので
ドーベルマンの子犬をもらってきて
ラッキーと名づけた
工場に連れていく前に
動物を飼えない団地にいったん連れてきたが
散歩させに外に出れば
リードも切れんばかりに
やみくもに走っていってしまうし
家のなかに連れ帰れば
部屋から部屋と駈けまわるし
なんでもかんでも噛み切ろうとするし
あちこちにおしっこはするしで
大騒ぎとなった

工場に連れて行かれてから
ラッキーはぐんぐん大きくなったが
ときどきぼくが工場に行くと
シッポをちぎれんばかりに振って
前脚を持ち上げて抱きついてきた
遊んでくれる人がいないんだなと思い
ぼくが行ったときは
さんざん引っぱられながら
桃の木々のなかをあっちにこっちに
いっしょに走ってまわった
濃い桃色の花の咲いている時期も
花が落ちてしまった後の
やわらかい若葉の頃も
葉の色の濃くなっていく頃も

独立したものの
やはりうまくいかず
父が工場を閉めることになった時
いろいろ整理をするので
それはそれで忙しいようだったが
なにもできないぼくは
ぼんやりと工場のまわりを歩きまわったり
ラッキーの前で腰を下ろして
だらだらとかまってやったりしていた
その頃にはもうラッキーも
以前ほどはしゃがなくなって
黙って小屋の前で座っていたりしがちだった

もう番犬はいらなくなってしまったので
ラッキーはだれか人にあげるのだと聞いたが
なぜだかぼくはそれだけで納得して
だれにラッキーをあげたのか
その後のラッキーはどうなったのか
質問をしないで済ましてしまった
ぼくはまだ人や世間というものを信頼していたので
ラッキーはどこかの家で
あいかわらずうまく生きていくと信じていて
もう成長してきたものだから
以前ほどはしゃいだりあばれたりしなくなったものの
黙って小屋の前で座ったりしながらも
そこそこ楽しくやっていけるのだろうと
信じて疑わなかった

このあいだ散歩していて見たのだが
大型犬が公園のトイレの前でじっとお利口に座って
ご主人さまが戻ってくるのを待っていた
戻ってきたご主人さまが犬をからだじゅう撫でてやると
犬はどの犬もそうするように大喜びして
口を開け舌を出してからだじゅうをぶるぶるさせて
ご主人さま、お帰りなさい!
と全身で表わしていた
あゝ、なんてしあわせに生かされている犬だろう
と思いながら
子どもの頃のラッキーのことを思い出して
ぼくはあんなふうにラッキーにしてやれなかったし
ぼくの家はあんな生き方を許してやれなかったし
ラッキーがどこにもらわれていったかさえ
ぼくは確かめもしないで過ごしてきてしまった!
としきりに思われて
飼い主でこそなかったものの
でもラッキーをいちどは家に迎え入れた子どもとして
ずいぶん情けないやつだった
と思わざるをえなかった
この思いには
長いながいあいだ
対面しないできていたな
と気づいた
対面しないできたことが
ぼくのこころのどこかに蓋をしてきていたんだな
と気づいた

ラッキーはもちろん
とうのむかしに死んでしまっているはずだが
ぼくがちゃんと育てられなかったラッキーの居場所が
この時ようやく
こころのなかの忘れていたところに
ふたたび拓けてきたようだった

そこには犬を住まわせるのがよさそうだ

でも
ほかの犬をではなく
子どものぼくがちゃんと育てられなかった
いまはこの世のどこにもいないラッキーだけを
迎えるのがよさそうだ
そこには

ラッキーでなければいけない
ぼくの犬は




ニャントモニャア……


  
ぼくのなかには猫が住んでいるので
ニャントモニャア……
などと
たびたび口走っている

ちょっと困ることがあったときや
予想外の珍事にめんくらったときや
ものごとがうまくいかないとき
ニャントモニャア……
はたいへんな効果を発揮する

もっと困ったときには
ニャンタルコトカニャア……
が強力に効く

口走ってみてください
ホントだから

奥義のうちでも最強の奥義
秘伝の呪文なんです





すべてになんにも土台がないんだってこと わかるよ


  
ながい経験から思うが
夢と
目覚めた後のいわゆる“現実”とは
ひと続きのもの

起きた後のわたしは
ある夢を経た後のわたしで
二度と
後戻りはできない
その夢を見る前のわたしには
二度と
戻れない

心配しすぎるほど心配する人が
新型コロナウィルスって
これ
夢じゃないのかしら?
書いてきたが……

そうだよ
これ
夢なんだよ

いままでの
あなたのぜんぶが
でしかないように

いままでの
あなたの夢のぜんぶが
“現実”
だったように

そして

すべてに
なんにも土台がないんだってこと
わかるよ
からだをすっかり
離れるときに

からだを離れること自体が
夢で
そんな夢のなかにしか
“現実”はない
ということも




アレカヤシの葉のひとつひとつが


  
冬のあいだは
アレカヤシの鉢を居間に置いているのだが
暖かくなってきたので
ヴェランダに出してみている

風に
葉のひとつひとつが
さわさわ
揺れている

けれど
急にまた寒くなって
今夜は
ヤシを外に出したままでいいものか
ちょっと
考えてしまう

もう
冬の風ではないが
ちょっと肌寒い風に
アレカヤシの
葉のひとつひとつが
さわさわ
揺れている




駆逐艦「笹」



美はいつも易々たる姿をしている
ジャン・コクトー



靖国神社の
桜の木々
まだ咲いていなくても
見てまわり
ほかの木々も見てまわりながら
戦時中の隊の隊員たちによる
「○○隊寄贈」という札を
いちいち
読んで行く

駆逐艦「槇」の乗組員は
ちゃんと槇の木を寄贈していて
さすが
とも
なるほど
とも
そりゃそうだろうな
とも思う

駆逐艦「竹」の乗組員は
竹を寄贈せずに
ほかの木を寄贈していた
名前は知らないが
庭木に使われそうなもののうちの
ひとつ

竹を寄贈はしないわけか
と思いながら
そんなもんかな
とも
なんかなぁ
とも
竹でもよかったんじゃないのか
とも

ひょっとして
駆逐艦「笹」なんてのも
あったりして?

スマホですぐ調べてみたら
どうも
なかったらしい

やっぱりなぁ
とも
そりゃそうだろう
とも
当たり前だろうなぁ
とも

きっと
新しい駆逐艦の名をつける時に
だれかに提案されたものの
却下されたんだろう
「『笹』はどうでありましょうか?」
「貴様、帝国の駆逐艦の名が『笹』でよいと思うのか?」
「はっ」
「重みがなさ過ぎるとは思わんのか?」
「はっ」
そんなやりとりがあったかもしれない
軽みのわからないやつは
いつの時代にも
どこの世界にも
いっぱいいるのだ

駆逐艦「粟」とか
駆逐艦「稗」なんかは
提案される以前に
自粛されてしまったにちがいない

そんな名が付けられたら
逆に
とっても強い船になったと
思うんだが