2024年7月24日水曜日

心が外に向かうばかりで内に返らなければ

 

 

 

心が外に向かうばかりで内に返らなければ

目の前に亡霊が現われるだろう

外をさまよって何かを得たとしても

それは死を得たというにほかならない

自分の本性は死滅しながら肉体だけが存しているのでは

亡霊と同じことだ*

 

このように

『荘子』雑篇・庚桑楚篇第二十三の四にある

 

至言であろう

 

現代の世界を見わたすに

心を外に向かわせ

亡霊として亡霊たちの群れの中に混じり入り

死を得る人々ばかりが見える

人々はみずからの本性をさらに死滅させ

肉体としてのみ

しばし地上にあり続ける

そして

それが良いこととされ

人間のあたりまえのあり方だとされる

 

この部分を含む文を

最初から見直しておく

 

道は根本的に一つである。

ある一つの個物として分かたれた状態が

他方では完成を意味するし、

また一方での完成が

他方では破壊を意味することにもなる。

人が個物としての分散を嫌うのは、

分散した個物でありながら完全性を求めるからである。

また完全な状態にあってもそれを嫌うのは、

より完全な形を求めるからである。

だから、

心が外に向かうばかりで内に返らなければ、

目の前に亡霊が現われるだろう。

外をさまよって何かを得たとしても、

それは死を得たというにほかならない。

自分の本性は死滅しながら肉体だけが存しているのでは、

亡霊と同じことだ。

形ある生身の存在でありながら、

形を超えた道にならって生きるなら、

そこに安定がもたらされるのだ。*

 

道通〔爲一〕。

其分也成也。

其成也毀也。

所惡乎分者。

其分也以備。

所以惡乎備者。

其有以備。

故出而不反。

見其鬼。

出而得。

是謂得死。

滅而有實。

鬼之一也。

以有形者象無形者而定矣。
(庚桑楚篇第二十三)

 

 

荘子は紀元前369年から286年頃の人であり

『荘子』雑篇は荘子自身の著作ではないので

数百年後のものかもしれないが

それでも

2000年ほどは前に書かれたものだろう

 

2000年も前に

このように書かれていることに

わたくしは

計り知れない安堵を感じる

 

とともに

本質において

なんら変化せず進歩しなかった人間性に

驚きと慨嘆と滑稽さを覚え

なんの意味も価値もなかった2000年!

と嘆息したくなってしまう

 

いや

嘆息ばかりではなく

心から

はじき出るのは

快哉でもあるのだ

 

どうにも

こうにも

まったく

とんでもなく

しょうもない人類!

 

 

 

*『荘子』雑篇(福永光司・興膳宏訳、ちくま学芸文庫、2013







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