2024年9月11日水曜日

きぬぎぬ


 

 

ジョリー・スカンジナビアの部屋から出て

エレベーターが4基あるホールに向かう時に

ひさしぶりに新たな愛人ができたということかと思った

早朝の五時になろうとしていた

 

彼女の部屋は超高層マンションの33階にあり

玄関口での別れのキスの後もわたしの手になおも

絡みついてくる彼女の手の指の一本一本がようやく離れたところで

回廊に滑り出たわたしの身体は

外気を遮断しているとはいえ沈んだように寒い冬の空気に

わずかに縮むような感触があった

 

いちばん近いエレベーターの昇降ボタンを押そうとすると

ドアが開いていて中に誰かがおり

工事中であることがわかった

見直せばエレベーターの外にも用具箱が開かれていたり

取り外された底板の類が立てかけられていたりした

どうやらエレベーターの点検修理らしかったが

こんなにはやい時間から一基ずつ始めているのにすこし驚いた

 

稼働している別のエレベーターの昇降ボタンを押し

なんと6階あたりから33階まで昇ってくるのを表示灯で見てから

点検中のエレベーターの中をすこし覗いてみたい衝動にかられた

取り外されている底板の場所から奈落の底が

すこしは覗けるのかと興味があった

 

屈み込んで向こう向きに作業している男の背後から

エレベーターの中を覗き込んでみると

たしかに大穴が開いたようになっていて

男は骨格となっている鉄の角柱に片足を乗せて作業している

つねにこんな状態で作業をするのではないだろうが

一時的にはこのような危険な姿勢をとる時もあるのだろう

 

作業の邪魔をしないように

男の動きというよりは開いた奈落の暗がりを見たくて

音も立てずに静かに男の背の上に首を伸ばして覗き込んでみたら

男はわたしの気配にふいに気づいたらしく

急にこちらを振り向いて見上げ

まさかこんな早朝に人が背後に来ていたとは思わなかったのだろう

アッと短い声を出して揺らいだ

そうしてなんの音も立てずに奈落に吸い込まれるように

男の身体は静かに消滅していった

しばらくしてから階下のほうから鈍い音が響いてきて

落下した重いものが地面に着地したような状態なのがわかった

 

呼び出した他のエレベーターが到着した音が聞こえたので

わたしはそちらに乗り込んで1階に向かい

まだ開かれていない管理人室の窓の前を通過して

明るくなるにはもうすこし間のありそうな冬の明け方の寒気のなか

つかの間とはいえかたちも色も備えた影のように滑り出た

 

33階のエレベーターホールに監視カメラが付いていれば

エレベーター作業員がひとりで早朝から仕事を始めていた箱を

わたしが覗き込んだことはあきらかにされるだろうし

1階の各所に監視カメラがあれば

事故のあったすぐあとにわたしがマンションから出て行ったのも

容易に発見されるだろう

作業員の転落自体は事故と見られるにしても

そこにわたしが関係したらしいことはビデオからわかるので

なんらかの捜索が行われるかもしれない

 

このことはちょっとわたしを気鬱にしそうになったが

寒い早朝の街の暗がりのなかを歩き出しながら

わたしはジョリー・スカンジナビアのすらりとした体躯に

思いのほとんどを占められていた

身長2メートル以上の引き締まった身体のプラチナ髪のジョリーは

高貴とも神聖とも言える不思議な悦楽へと

ついさっきまでのわたしの数時間を引き込んでいたのだ

 

取り替え用のフェイスをいくつも持っているわたしは

たまたま昨晩から今朝まで

あまり使わないフェイスを付けて某所に出入りし

そこでジョリー・スカンジナビアに出会って彼女のマンションに赴いたので

監視カメラにわたしのそのフェイスが残っていても

簡単にはわたしの特定には至らないと思われる

しかも昨夜来のわたしは取り替え用のブレインシステムのうち

中欧人用のものを脳のUSBに指していたので

身体そのものは日本人のものであっても

立ち居振舞いはかなり中欧型になっていたはずなので

監視カメラに残った映像から日本人としてのわたしに行き着くのも

かなり困難なものになるだろう

 

そもそもわたしは

早朝からひとりで仕事を始めていたエレベーター作業員に

殺意を持ったわけでもなければ触れてもいない

ひとりの生命の喪失に対してわたしにもし落ち度があるとすれば

エレベーターの底板を外したところに開ける奈落を垣間見たいとい

ちょっとした好奇心を抱いたというだけのことであり

さらにいえば階下に転落して死亡したであろう作業員のことを

警察にも消防にも通報しないであの場を立ち去ってしまったことだろう

 

一般市民にも課せられているはずの救命の義務を怠った点は

なるほどわたしの過失に数え上げられるべきかもしれない

しかしながらわたしがいわゆる「一般」市民でないのだとすれば

義務の放棄なる概念にも揺らぎが生じてくることになり

かりに警察沙汰に巻き込まれたとしても

わたしにはいかようにも申し開きができる可能性が残されることだろう





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