「岩屑」という言葉は
古井由吉の『杳子』*を見ていて
はじめて知った
登山家たちが使う言葉かもしれないが
街暮らしでは
なかなか
この言葉には出会わない
山登りをしている主人公が
西の空に黒雲のひろがりを見つけ
追い立てられるような気持で尾根を下り
谷に入っていく
「岩屑」は
谷底の河原に
「流れにそって累々と横たわって静まりかえり
重くのしかかる暗さの底に
灰色の明るさを漂わせていた」
そうして
「岩屑」のこの明るさのなかに
「杳子」が出現する
「その明るさの中で
香子は平たい岩の上に職を小さくこごめて坐り
すぐ目の前の
誰かが戯れに積んでいった低いケルンを
見つめていた」
小説というものが
忘れがたい印象的なシーンを
冴えた映画のように提示することで始まるものだった時代の
とりわけ印象深い冒頭の『杳子』だった
勢い込みたくても
いい出だしが書けないときは
気張らないで
控えめに書きはじめる
というようなことを
かつて
どこかで吉行淳之介が書いていたが
小説であれ
映画であれ
ドラマであれ
あまりに多量に生産されてしまって
すでに個々の作品が存在価値や意義を失うほどに
極限の飽和状態に至ってしまった昨今では
気張らないで
控えめに書きはじめられた小説は
一度といわず
再三
作者自身によって再考や
再編集をされて
これ以上ないほどのシェイプアップを施されてから
発表するようにしてほしいと
読者としては思う
200ページだの
300ページだの
400ページだのを使って
グダグダ細かな雑事を書き込まれても
もう読者はつき合っていられない
せいぜい10ページ程度に凝縮してから
発表せよ
などと思うが
つまりは
ボルヘスになれ
ということか
*古井由吉 『杳子』、1971
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