むかし
小説を書く
ということしか望んでいなかった
いまもそうだが
とはいえ
文学
といえば
小説
しか視野に入ってこない人々の繁茂する
視界狭窄の時代に
文学
の側に根を下ろした者は
むしろ
小説
だけは避けたい
と
も
思うものだろう
消費財として文庫の書棚に
多量に並ぶ
小説
の一冊に時間を溶かすよりも
ロートレアモンにつきあい続けるほうが
どう見たって
文学
であろうし
藤原定家に没頭し続けるほうが
稀少な言語表現の
無限の探訪者
らしい
セルバンテスや
ドストエフスキーや
マルケスや
ヘンリー・ジェイムズや
コンラッドや
プルーストに
ならないのならば
なれないのならば
女優にもなれざりしかば冬沼にかもめ撃たるる音聴きており
(寺山修司)
いまや
大量生産財であり
消費財である
小説
にこだわるのは
ただの
時代錯誤か
情弱
というべきだろう
ロートレアモン研究からはじまった
ル・クレジオが
小説
と銘打ちながら
『逃亡の書』や『戦争』や『巨人たち』や『洪水』や
さらには『むこう側への旅』など
散文形式の詩小説の極北を書き上げたのも
むべなるかな
むべなるかな
である
晩年のロラン・バルトが
小説創作
へむかって
コレージュ・ド・フランスで
まったく小説的でない
あれやこれやの文学ネタ彷徨を行ったのも
それこそがむしろ
1980年までの沸騰した時代の
小説
だったように見え
むべなるかな
むべなるかな
である
ロラン・バルトよりも
クロード・シモンや
ロベール・パンジェや
ジャン・エシュノーズたちのほうが
小説
っぽく装う
のが
うまかったが
彼らの
小説
は
大量生産消費財としての
小説
を並べる棚
としての
ニッポンの文庫売り場の棚には
たぶん
未来永劫
ほとんど載せられることはなく
あくまで
海外文学
という
珍味の棚に
わずかに載せられるばかり
だろう
さて
ところで
小説
小説
小説
とばかり視界狭窄し続ける言語界だが
小説
には決定的な弱点がある
個別案件しか扱わないことだ
特定の名を付けられた
特定の人物たちが設定され
キャラクター付けされ
生活状況が設定され
夢も希望も身体的特徴も人間関係も設定されて
まあ
作者さんたちにおかれましては
ご苦労さま
な
ことではある
個別案件だけ
個別事象だけ
けっして普遍は主人公にならない
一般も
全体も
主人公にはならない
まあ
小説
であって
大説
じゃないのは
そういうことなのさ
と
坪内逍遙センセや二葉亭四迷センセなら
説き直してくれるかもしれぬ
北村透谷センセも
もうちょっと長生きしてたら
小説のこのあたりの超弱点について
ジュンジュンと語ってくれたかもしれない
それにしても
個別案件だけ
個別事象だけ
それって
かなりダメダメじゃない?
と
やっぱり
思う
どうしたって
人物再登場法を使って
バルザックみたいに「人間喜劇」体系をやりながら
補完したくなるだろうし
ゾラみたいに「ルーゴン・マッカール叢書」したくもなる
そうしないと
小説
に埋め込まれた
個別案件だけ
個別事象だけ
という弱点の乗り越えは
できない
とはいえ
もう
大量の小説群の山を盛りあげるのも
情報過多
モノ氾濫の現代では
流行らない
ファン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』みたいに
薄めに
もったいつけずに
風が運ぶお話のように
ペラッと語っちゃう
ような
のも
やっぱり
いいんじゃないかな
と
思える
薄さや
軽さが
なんたって
正義
なのだよ
今
0 件のコメント:
コメントを投稿