2026年6月4日木曜日

窮極の空虚の岸辺


 

 

紙媒体の上で

電子画面の上で

音響媒体の中で

人声から人声と伝わっていく場で

過剰に激しく飛び交い続ける

ニュース、思い、思いつき、メモ、批判、批難、不平、考察、

慨嘆、悲憤慷慨、皮肉、ユーモア、嘲り……

 

それらを目にし

耳に

していると

誰もが認める大舞台として

まるで「世界」というものが本当にあって

そこでは

人体や人心や知性や精神や霊を

喜怒哀楽させ

動揺させ

時には傷つけ

死に至らせる大小の出来事が

絶え間なく発生しているかのようなのだが

はたして

「世界」

など本当にあるのか?

あると言われ

あると信じ込まれている「世界」とは

どういう意味での「世界」なのか?

 

などと

問うまでもなく

個々の人体に乗っている

というか

帯びさせられている

意識たちにとって

たぶん最も切実な問題は

「世界」よりも

かれらの人体や思考用言語が属している集団の

おそろしいまで偏った特異性であり

その特異性がかれらの意識に仕掛けてくる強固な枠づけであり

抑圧であり

懐柔であり

溶解であり

腐敗化であり……

 

思っているところへ

たとえば

1986年の時点でのフェリックス・ガタリの

東京体験

を思い出してみる*

 

捉えがたい侵犯の曲折の果ての、

窮極の空虚の岸辺における拒絶と放棄。

視線に漂う誇りと優しさと暴力。

女性的・母性的諸価値がいたるところに存在しながら、

しかし厳重このうえなく囲い込まれ抑圧されているという逆説。

そうした抑圧のこれみよがしの姿。

 

ガタリは抽象的にこのように語り

あまりの抽象性のゆえに

これをどう理解するべきかと

読者は戸惑わざるを得ないのだが

彼の哲学的言説はとりわけ詩の言葉で語られるので

読者の側のチャンネルがピタリと合えば

稲妻のように理解が落ちて来る

 

なんと見事な

日本観察であり

東京透視であろうか

 

「世界」から日本を見に来る人々が

なんと感じようと

なんと見たがろうと

日本は「厳重このうえなく囲い込まれ抑圧されている」場であり

「女性的・母性的諸価値がいたるところに存在」しているかのようでも

それらはつねに「暴力」でしかない

そして

なんと無限にまき散らされた「空虚」「空虚」「空虚」であることか!

「窮極の空虚の岸辺における拒絶と放棄」とは

なんと正確に見抜いたことか!

 

日本脱出したし皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

 

と歌った塚本邦雄のように

なぜ日本人の多くが日本を脱出したいのか

この答えにガタリの詩的考察は正確に焦点を当てている

 

「空虚」であることによってのみ

全的に「虚無」を受け入れることによってのみ

そうして精神的な絶対をけっして持たず

方向を持つ自我を完全放棄することによってのみ

駅ビルの商業空間やテーマパークにおけるような

ひたすらな消費者としてのみの安全と安寧と安閑さが

日本列島では保証されるのだが

それをガタリは「窮極の空虚の岸辺」と見事に言い切っている

 

日本列島で「平和に」「やすらかに」暮らしていく人々に

もっともふさわしい短歌として

おそらく奇妙に受けとられるだろうが

乳ガンとの闘病を歌って戦後の現代短歌を拓いた中条ふみ子の歌が

どうしても思い出されてならない時がある

 

彼女の死んだ昭和の荒れた戦後風景と

似ても似つかぬはずの令和時代のいまの時空間に

いくつか

彼女の歌を思い出しておきたい気がする

というのも

中条ふみ子が浮き上がらせようとした対象こそ

日本列島とここに立ち込める深い霧に囲い込まれた意識たちのみが

ありありと感知できる

日本という優しいガンの正体だったのではないかと

思われるからだ

 

 

失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ

 

きられたる乳房(くろ)ずむことなかれ葬りをいそぐ雪ふりしきる

 

無き筈の乳房いたむとかなしめる夜々もあやめはふくらみやまず

 

身に副へる何の悲哀か螺旋階段登りつめれば降りる外なし

 

ゆつくりと膝を折りて倒れたる遊びの如き終末も見え

 

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無残を見むか

 

 

 

 

*フェリックス・ガタリ『誇らしげな東京』

in フェリックス・ガタリ『機械状エロス 日本へのまなざし』(ギャリー・ジェノスコ+ジェイ・ヘトリック編、杉村昌昭+村澤真保呂訳、河出書房新社、2024

 

Machinic Eros : Writings on Japan by Félix Guattari (Edited by Gary Genosko and jay Hetrick, Univocal, 2015)

 

 

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