なにか書くということに
あまりに多大の意義を帯びさせようとする人々には
わたしの場合
賛成はできない
たとえば
海を前にして
あるいは大河のほとりで
ノートにも
画帳にも
なにも書かず
描かずに
ただ視界をひらいていることの快さを
じゅうぶんに経験してきたから
しかし
言葉を記そうとすることに
意義がないとも
思わない
言葉を記していこうとすると
すぐに意味を
文字で構成していこうとしてしまうのに
だれもが気づくだろう
「なにか食べたくなってきた…」
などという
自然な欲求の文字化なら
文字ならべも無邪気なものだが
多くの場合
もっと意味のある内容を
意義ある文字ならべをしよう
などと
思いは凝りはじめていく
「なにか食べたくなってきた…」
などは
書かなくてもいいだろう
もっと書く意義のあることを
価値のある内容を
どうせなら
文字では記すべきだ
などという命令が
意識の奥から
圧力をかけてくる
こうして
文字ならべは堕落していく
書くことは
前もって
あらかじめ
腐敗していく
書くことも
文字ならべも
それがはじまる最初から
意味や
価値や
さらには
高尚さや品格や
新しさや
驚きや
表象の帯びるべき(と妄想される)普遍性などに
支配させてしまう
おお
かわいそうに! 「書くこと」よ!
かわいそうに! 「文字ならべ」よ!
文字を知って間もない頃には
おまえたち
文字を
あんなに気ままに
できるかぎり自由に
チラシの裏の白紙や画用紙に
書き散らして
大人が強いてくるなんの意味にも
意義にも
価値にも
つき合わせずに
「書くこと」を純粋に近く「書くこと」として
紙の上に展開させたものだったのに!
人生識字憂患始
(人生 字を識るは 憂患のはじめ)
蘇軾が
このように
『石蒼舒醉墨堂』*という七言古詩の冒頭に書いたのは
間違っていた
過去の人間たちによって作られた文字は
後から生まれてきた者たちには
いわば野の草や路傍の石や岩のようなもので
その形象を楽しんだり
かたちを真似て線を引いてみたり
書き並べてみたりすべきもの
それ自体はおもしろい遊び道具で
けっして「憂患のはじめ」となるわけではない
「憂患」は
それらの遊び道具に
ずいぶん狭い運用規則を課すところから
生じてくる
饒舌な詩人で
饒舌詩の名人だった蘇軾のこの詩では
冒頭の句よりも
むしろ
十七行目のあたりからが
おもしろい
我書意造本無法 我が書は意造にして 本 法無し
點畫信手煩推求 点画 手に信せて 推求を煩わす
胡為議論獨見假 胡為(なんす)れぞ 議論 独り仮されて
隻字片紙皆藏收 隻字 片紙 皆藏收せらる
不減鍾張君自足 鍾・張に減ぜざるは 君自ら足れり
下方羅趙我亦優 下 羅・趙に方(くら)ぶれば 我も亦優ならん
不須臨池更苦學 須(もち)いず 池に臨んで更に苦学することを
完取絹素充衾裯 絹素を完取して 衾裯(きんちゅう)に充てよ
わたしの書ときたら勝手な崩し書きで技法の基本から外れている。
一点一画、でたらめ書きで、どう解したものかと人を悩ませる。
それをどうしたわけか評価などしていただき、
一字の切れ端まで収集して下さっている。
きみは鍾繇・張芝にひけをとらない腕前、
わたしも羅暉・趙襲ぐらいになら負けはしないかな。
まあ、池のそばで張芝がそうしたように
池の水が黒くなるまで字を練習する必要などは
いまさらあるまい。
白絹はそのまま取っておいて、布団の表にでもしたらいいだろう。
1069年頃の作だが
たびたびの不遇に遭いながらも
強靱な楽天さで
天性のユーモアを振りまき続けた蘇軾の文字ならべからは
千年近い後のいまでも
ずんずんとエネルギーが来る
なに?
それはちゃんと
蘇軾が
文字ならべを意味に従えさせたからだって?
「書くこと」を意義の配下に服従させたからだって?
そうかもしれないが
そうしてもなお
文字たちを元気いっぱいに躍動させ
「書くこと」を
とりあえずの形式のなかで
できうるかぎり
自由に
踊らせ得たからだった
……と
しておこうか
*石蒼舒酔墨堂 蘇軾
人生識字憂患始 人生 字を識るは 憂患の始め
姓名粗記可以休 姓名 粗(ほ)ぼ 記すれば 以て休(や)む可し
何用草書誇神速 何ぞ用いん 草書の神速を誇るを
開卷戃怳令人愁 卷を開けば戃怳(しょうきょう)として人をして愁えしむ
我嘗好之毎自笑 我嘗て之を好み 毎(つね)に自ら笑う
君有此病何能瘳 君に此の病有り 何ぞ能く瘳(いや)さんや
自言其中有至樂 自ら言う 其の中に至楽有りて
適意無異逍遙遊 意に適すること逍遙の遊に異ること無しと
近者作堂名醉墨 近者(ちかごろ) 堂を作りて醉墨と名づく
如飲美酒消百憂 美酒を飲んで百憂を消するが如しと
乃知柳子語不妄 乃ち知る 柳子の語の妄ならざることを
病嗜土炭如珍羞 病んで土炭を嗜んで珍羞の如しとす
君於此藝亦云至 君 此芸に於いて 亦た至れりと云う
堆牆敗筆如山丘 牆に堆(つ)める敗筆は山丘の如し
興來一揮百紙盡 興来って一たび揮えば 百紙盡く
駿馬倏忽踏九州 駿馬 倏忽(しゅっこつ)として 九州を踏む
我書意造本無法 我が書は意造にして 本 法無し
點畫信手煩推求 点画 手に信せて 推求を煩わす
胡為議論獨見假 胡為(なんす)れぞ 議論 独り仮されて
隻字片紙皆藏收 隻字 片紙 皆藏收せらる
不減鍾張君自足 鍾・張に減ぜざるは 君自ら足れり
下方羅趙我亦優 下 羅・趙に方(くら)ぶれば 我も亦優ならん
不須臨池更苦學 須(もち)いず 池に臨んで更に苦学することを
完取絹素充衾裯 絹素を完取して 衾裯(きんちゅう)に充てよ
人生、文字なんか覚えるから憂いも苦しみも始まってしまうのだ。
項羽が言うように自分の姓名が書けるぐらいにしておけばいいのに
神速を誇って草書をさらさら書いたからといってどうなるというのか。
巻を開いても何と書いてあるのかわかりづらく人を悩ませたりして。
とはいえ、われながら笑ってしまうほどわたしも書が好きで、
きみときたらもう病気といってもいいほどで治しようがないね。
この楽しみにかなうものはないなどと言っているし
自由無礙の理想郷(荘子)に遊んでいるようだとさえ言う。
最近、書斎を作って酔墨堂と名づけたのも、
美酒を飲んで心配事を洗い流すのと同じだからというじゃないか。
そうしてみると、柳宗元の言葉もでたらめではないね。
土や炭を食べてご馳走のように感じる病気があるというが
きみがこの芸術に打ち込んだのもその極地だよ。
使い古した筆がそこの垣根に山丘のごとく積まれているし、
興に乗って一度筆をふるえば百枚も書き尽くしてしまう。
まるで駿馬が一瞬にして全国を駆けめぐるようだ。
わたしの書ときたら勝手な崩し書きで技法の基本から外れている。
一点一画、でたらめ書きで、どう解したものかと人を悩ませる。
それをどうしたわけか評価などしていただき、
一字の切れ端まで収集して下さっている。
きみは鍾繇・張芝にひけをとらない腕前、
わたしも羅暉・趙襲ぐらいになら負けはしないかな。
まあ、池のそばで張芝がそうしたように
池の水が黒くなるまで字を練習する必要などは
いまさらあるまい。
白絹はそのまま取っておいて、布団の表にでもしたらいいだろう。
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