外部からの生活習慣や感性や思考の
とめどない流入や
侵略とも呼ぶべきレベルに達した
この国の流儀への無視や破壊に対して
ようやく
日本というものを守ろう
との声があちこちに響くようになってきたが
とりあえず日本人である
わたくしからすれば
「日本というものを守ろう」とかけ声されるのも
どこかもどかしく
どこかむずがゆい感じで
そもそも
「日本というもの」にずいぶん
いやな思いをさせられ
いたぶられ
苦しめられてもきたので
そりゃあ
この列島の生活流儀を無視して
よその流儀を平気で展開しようとする外国籍人に対しては
文化的侵略を阻止しないとな
とは思うものの
陰湿さや
いじめ体質や
根っからの全体主義村民性などまで
守る気には
なれんわなぁと
やっぱり思うのである
「日本というものを守ろう」とかけ声されるのなら
まだいいのだが
「日本を守ろう」とかけ声されると
おいおい!
その「日本」って
どんな「日本」なんだ?
まさか
わたくしの大好きな下剋上の戦国「日本」じゃなくって
徳川全体主義「日本」のことじゃ
あるめえな?
急ごしらえの薩長インチキ帝国主義国家「日本」のことじゃ
あるめえな?
田布施のドン百姓をすげ替えてメージテンノーとか呼んじゃって
フリーメイソンから武器弾薬を供給されて列島をまるごと乗っ取っ
成り上がり長州下層民たちの掲げた「日本」じゃ
あるめえな?
と
やはり
どうしても
思っちゃうのだ
江藤淳が
うっとりするような定義を
かつて
「日本」についてしたことがあった
自然と人間、
人と虫と獣と鳥、
生者と死者とが
渾然一体となって
つくりあげている空間を、
かつて
われわれは
日本と呼んだ。
(『自由と禁忌』)
「自然と人間、
人と虫と獣と鳥、
生者と死者とが
渾然一体となって
つくりあげている空間」
というところが
ミソで
江藤淳は
たんなる右翼ではなかったし
大日本帝国主義者ではなかったし
天皇賛美者でもなかった
「自然と人間、
人と虫と獣と鳥、
生者と死者」のすべてが
最大限のポリフォニー性を帯びて
降臨してくるところに
日本と呼ぶべき「日本」が
発生しうる
そう見ているところに
江藤淳の隔絶した日本主義があった
これをもとに考え直すと
「自然と人間、
人と虫と獣と鳥、
生者と死者とが
渾然一体となって
つくりあげている空間」に対して
攻撃と破壊を行い続けている日本人自身の
絶望的なまでにいかに多いことか
と思わされる
ヴァンス副大統領がEUでぶちかましたように
アメリカの敵はアメリカ内部におり
ヨーロッパの敵はヨーロッパにおり
日本の敵は日本にいる
とりわけどのあたりにいるかは
なんでもプレゼン過多の傾向のある現代では
今でははっきりと視覚化できるようにさえなってきた
「自然と人間、
人と虫と獣と鳥、
生者と死者」との
「渾然一体」感を損なう者たち
損なおうとする者たちは
だれか?
守ろうとするべきは
それらの者たちからなのであり
それらの者たちが
あきらかに
「日本というもの」から逸脱しているがゆえに
現代の尊王攘夷運動は
なにを以て「尊皇」とするのか
なにに対して「攘夷」するのか
よくよく対象を確定して
照準を定めていかないといけない
0 件のコメント:
コメントを投稿