YouTubeを覗くと
大災害や破滅がいつ来るか
日本や人類や地球の終わりがいつ来るか
それらはもう近い
今年こそその年であり
6月から大雨や水害や洪水が始まる
といった内容の動画が
まさに目白押しになっている
まとめて言えば
YouTubeは
終末論や宿命論の器に
なってしまっている
「終末論や宿命論は老朽化した社会構造からの脱走本能だ」*
という
安部公房の言葉を思い出しておこう
この後の発言は以下のようになる
むかし上海とか香港の阿片窟に行くと、壁に「世界の終末は近い」というような文句がいたるところに貼ってあったらしい。いくら阿片を吸って陶酔していても、心の何処かで破滅に向って猛スピードで走っていることに気付いてはいるんだな。だから「世界の破滅は近い」と言われると、破滅に向って走っているのは自分だけじゃない、世界も一緒に走っているんだと自分をなぐさめることができる。
しかし破滅願望、必ずしも阿片窟での逃避の歌だけにはとどまらない。脱走のエネルギーが組織化されれば革命に向うこともありうる。破滅の情熱と再生の情熱とは、まさにメダルの裏表なんだね。極右や極左のロマンチシズムは、けっきょく革命の情熱と破滅の情熱の間の微妙な揺れ動きなんだ。
あえて誤解を恐れずに言えば、「核の脅威」を論ずる語調のなかにもしばしば破滅願望の響きを感じてしまうことがあるんだ。とくに「核の冬」の論じられかた。「核の冬」の認識が重要であることはぼくだって同感だよ。でもあの認識は「核廃絶」のために必要な条件ではあっても、十分な条件ではないと思う。たしかに核シェルターなんかによる生き残りが物理的に不可能であることの説得にはなるだろう。でもあの論法では核シェルターそのものの否定、核シェルターという発想そのものの中にひそんでいる危険思想にまでは辿り着けない。核シェルターを無効にするほどひどいものだから核戦争が困るのではなく、核という最終破壊手段にまで行き着かざるを得なかった人間の政治的無能力さこそ、まっ先に問われるべきなんじゃないか。そこを抜きにして核戦争の惨劇だけを情熱的に語るのは、戦争のシミュレーション・ゲームに熱中している子供のようで薄気味悪い。*
まさに
「破滅に向って走っているのは自分だけじゃない、
世界も一緒に走っているんだ
と自分をなぐさめることができる」ための装置に
いまYouTubeは成っている
YouTubeだけではなかろう
地上の人界全体が
「一緒に破滅に走っている」壮大な立体動画になっている
安部公房が『方舟さくら丸』に書いたような
「ご破算の世界」*が現実に到来しつつあるのであり
「すべてをご破算にして、
もういっぺん
先行グループと同じスタート地点に立つチャンスをもらいたいという
落伍者、脱落者に共通した衝動」*が
四方八方に
駆け抜けていっている世界となっている
「破滅願望というのは同時に再生願望でもある」*
からだ
*引用は『死に急ぐ鯨たち』(安部公房、1986)より。