2025年5月28日水曜日

ご破算の世界

 

 

 

YouTubeを覗くと

大災害や破滅がいつ来るか

日本や人類や地球の終わりがいつ来るか

それらはもう近い

今年こそその年であり

6月から大雨や水害や洪水が始まる

といった内容の動画が

まさに目白押しになっている

 

まとめて言えば

YouTube

終末論や宿命論の器に

なってしまっている

 

「終末論や宿命論は老朽化した社会構造からの脱走本能だ」*

という

安部公房の言葉を思い出しておこう

 

この後の発言は以下のようになる

 

むかし上海とか香港の阿片窟に行くと、壁に「世界の終末は近い」というような文句がいたるところに貼ってあったらしい。いくら阿片を吸って陶酔していても、心の何処かで破滅に向って猛スピードで走っていることに気付いてはいるんだな。だから「世界の破滅は近い」と言われると、破滅に向って走っているのは自分だけじゃない、世界も一緒に走っているんだと自分をなぐさめることができる。
 しかし破滅願望、必ずしも阿片窟での逃避の歌だけにはとどまらない。脱走のエネルギーが組織化されれば革命に向うこともありうる。破滅の情熱と再生の情熱とは、まさにメダルの裏表なんだね。極右や極左のロマンチシズムは、けっきょく革命の情熱と破滅の情熱の間の微妙な揺れ動きなんだ。
 あえて誤解を恐れずに言えば、「核の脅威」を論ずる語調のなかにもしばしば破滅願望の響きを感じてしまうことがあるんだ。とくに「核の冬」の論じられかた。「核の冬」の認識が重要であることはぼくだって同感だよ。でもあの認識は「核廃絶」のために必要な条件ではあっても、十分な条件ではないと思う。たしかに核シェルターなんかによる生き残りが物理的に不可能であることの説得にはなるだろう。でもあの論法では核シェルターそのものの否定、核シェルターという発想そのものの中にひそんでいる危険思想にまでは辿り着けない。核シェルターを無効にするほどひどいものだから核戦争が困るのではなく、核という最終破壊手段にまで行き着かざるを得なかった人間の政治的無能力さこそ、まっ先に問われるべきなんじゃないか。そこを抜きにして核戦争の惨劇だけを情熱的に語るのは、戦争のシミュレーション・ゲームに熱中している子供のようで薄気味悪い。*

まさに

「破滅に向って走っているのは自分だけじゃない、

世界も一緒に走っているんだ

と自分をなぐさめることができる」ための装置に

いまYouTubeは成っている

 

YouTubeだけではなかろう

地上の人界全体が

「一緒に破滅に走っている」壮大な立体動画になっている

安部公房が『方舟さくら丸』に書いたような

「ご破算の世界」*が現実に到来しつつあるのであり

「すべてをご破算にして、

もういっぺん

先行グループと同じスタート地点に立つチャンスをもらいたいとい

落伍者、脱落者に共通した衝動」*

四方八方に

駆け抜けていっている世界となっている

「破滅願望というのは同時に再生願望でもある」*

からだ

 

 

 

*引用は『死に急ぐ鯨たち』(安部公房、1986)より。




2025年5月21日水曜日

いつ戦争は終わるのか?

 

 

 

本のおもしろいところは

そして

困ったところは

ひとたびどこかのページを開くと

こちらの意識が変容し

次元が変わり

世界も宇宙も豹変し

問題意識も

生の進む先も

すべて

変わってしまうところだ

 

16年ほども開けなかった

本の箱の奥から出した一冊に

パスカル・キニャールの『アメリカによる占領』*があった

 

この本は読んでいなかった

 

白水社の「ふらんす」で

フランスの新刊本の紹介をしていた頃

毎月新刊をたくさん買い込んで

片っぱしから読んで

どれかひとつを選んで記事を書いたものだったが

その時に買ったものの

読まずに済ましてしまった一冊だった

 

冒頭はこんなふうに始まる

 

いつ戦争は終わるのか? オルレアンの人間はケルト人に支配され、ゲルマン人に支配され、古代ローマ人に支配され、かれらの12の神々によって五世紀にわたって支配された。さらにヴァンダル人に支配され、アラン人に支配され、フランク族に支配され、ノルマン人に支配され、イギリス人に支配され、ドイツ人に支配され、アメリカ人に支配された。女の目のなかに、兄弟たちが突き上げる拳のなかに、怒鳴る父の声のなかに、社会的な個々のつながりのなかに、敵であるなにかがいつもあった。奪い取ろうとしてくるなにか。殺そうとしてくるなにか。ぼくらがする努力の目的は、幸せになることではない。温くして老いていくことではない。苦しまずに死んでいくことではない。ぼくらの目的は、なんとか生きのびて夕方を迎えられることなのだ。

 

1994年に書かれた本だが

2025年の現代にこそ

読まれるべき本かもしれない

 


 

*Pascal Quignard  l’Occupation américaine  Edition du Seuil, 1994

 




「いま4時46分!」

 

 

 

引っ越してから

もう

9年ぐらいになるのか

 

以前の住まいのほうに借りてある

トランクルームを

そのまま

借りっぱなしにしてあるが

手放そう

手放そう

と思いながら

まだ整理ができておらず

借りっぱなし

 

いまの住まいから

30分ほどで行けるのだが

いざ行こうとなると

時間や仕事の調整も必要になるので

そう容易には行けず

9年ほどほったらかしになった

 

借りたのは

以前の住まいに

さらにそれ以前の住まいから越した時の

1年後なので

16年ほど前になる

 

そこには

死んだエレーヌのところにあった本も

いっぱい収めてあって

整理しようにも

手放そうにも

段ボール箱から出し直して

いちいち見直して

他の箱に入れ直して

どれを手放すか

どれを手元になお残すか

考えないといけない

 

これが億劫なので

なんとなく

30分ほどの距離なのに

行く気が薄れてしまう

 

きょうはひさしぶりに行ってみて

段ボールを3箱たたみ

未整理の箱があと16箱というところまで

たどり着いた

 

手元に置くべき本は

スーツケースに入れて持ち帰ってくる

途中メトロに乗るので

会社員が帰り出す夕方の17時頃までには

メトロに乗ってしまっていたい

持ち帰るのはいつも

数十冊から100冊ぐらいだが

まったくこの労働は

蔵書5万冊になってしまった報いで

ただただ愚かな話と思う

 

それでもきょうは

いちばん奥に埋もれていた箱を開けて

16年ほど触れなかった

ミラレパの経典のフランス語訳や

カルロス・カスタネダの本ぜんぶを持ち帰れたのは

幸いだった

 

トランクルームへ向かう途中の

マンションの日当たりのいい植込みで

東京では今どきめずらしく

元気そうな野良猫が歩いているのを見れたのも

幸いだった

 

重くなったスーツケースを引いて

ふたたび駅にむかう時

小学生のメガネの女の子から声をかけられ

「すみません! いま何時ですか?」

と聞かれたのも

東京では今どきめずらしかった

見知らぬ人とはしゃべってはいけない

などという

嫌人性助長教育が公然と奨励されている現代日本なので

見知らぬ大人に時間を聞く子どもなど

絶えて絶滅してひさしいものと思っていたのだから

 

数字が太字で表示される

カシオのGショックのデジタル時計をつけているものだから

時刻は正確に分まですぐに見てとれる

「いま446分!」

と間髪を置かず答えてやったら

あまりに即座に分まで返されたものだから

女の子はちょっと驚いて

口をポカンと開けたけれど

すぐに

「どうもありがとうございました」と

初級日本語の教科書のような返答をしてきた

 

こんな女の子もいて

野良猫もいて

以前住んでいたところあたりは

のんびりとした初夏の

ちょっと暑くなり出した

明るい夕方であった






2025年5月20日火曜日

このくらいで言い終え

 

 

 

29度や30度に

気温は上ってきているそうだが

きょうは

いい風が吹いてくる

 

夏がまだ若くて

若さを楽しんでいて

さわやかな風のなかで

まだ汗ばまない空気を肌も楽しみ

気持ちのいい日だ

きょうは

 

そうして

このくらいで言い終え

短い詩として

書き終えていくのが

いわば

言葉の礼節

とでもいうもの

 

短く書くのが

得意だったゲーテが

よく

やってみせた

手だ






ただそこに在れ

 

 

 

何をやってもよい

そこにおまえが在るだけでよい

(中上健次 『千年の愉楽』)

 

 

 

ああ、表現なんて

くだらない!

 

表現というのは

それそのものではないということで

表現が表現しようとするなにかは

表現の場にはない

 

表現はただの指し示し

ただの指さし

 

表現が指さしている本質のほうに向かい

そこに分け入って

本質まみれになってしまえば

もう表現の忍び寄ってくる余地はない

 

いつまでも表現に留まるんですか?

いつまでも本質にはなっちゃわないんですか?

 

なにも見せようとしないこと

なにもしゃべらないこと

なにも説明しようとしないこと

なにも描かないこと

ましてや「こんな表現してます」なんて

宣伝しないこと

表現者だなんて恥ずかしい顕示しないこと

 

ただそこに在れ

在ることが起こっているうちは

じぶんを自己検閲さえするな

じぶんに流行のお化粧なんてするな

 

「何をやってもよい

そこにおまえが在るだけでよい」

(中上健次『千年の愉楽』)







夏の旬


 

 

神田祭も終わり

三社祭も終わると

東京は夏

夏のまっさかり

 

旧暦の季節感の

正確さを

すっかり忘れさせられて

7月頃からが夏

と教えられて育った子たちは

5月という夏に気づけず

春の延長と思い込んで

生き損ねてしまう

 

もう夏なんだよ

夏の旬なんだよ

と教えてやらないと

いけないのに

教えてやるべき老人たちが

のんびり端居しながら

煙草を吸ったり

外で碁や将棋を囲む習慣も

失ってしまっているから

旧暦の季節感は

幼い者たちに伝わっていかない

 

生まれつき敏感に

なんでも感じとる者たちだけが

5月の夏に気づいて

これから花期をむかえる

花菖蒲も紫陽花も

その後にひかえる朝顔の

はじめの花も

見逃さないでいられる






2025年5月18日日曜日

この青い明るさを


 

 

朝の四時にも

まだならないのに

ゴミを捨てに回廊に出ると

東が見晴らせる窓からは

もう青く明るんだ空が

見えている

 

ついこの間

立夏が過ぎたと思っていたら

天空はもう

夏の盛りなのだ

 

家に戻ってから

ヴェランダに出て

東や南の空を眺め渡してみると

やはりもう

一様に明らんで

朝だ

すっかり

 

今年の夏至は621

そこへむかって

日中は伸び続けていく

あとひと月ほどの

この期間がことしの盛り

ことしのいのち

 

朝の空の

この青い明るさを

ほかのなににもかえがたく

すこしも洩らさず

ことしも生き切ろうとする





いい加減気づけよ

 

  

 

どんなに読もうとも

所詮

本は外部であり

他者の思考痕跡であり

わたしの一部になるわけではない

 

こういう批判には

なるほどと思わせられるし

わたしも

議論の種類によっては

道具として

この視点を採用したりする

 

けれども

かといって

いわゆる「わたし自身の思考」

といったような

夢見がちというか

夢想主義的オプティミズムとでもいうか

頼れるようなそんなものが

あるわけもないのは

ちょっと年齢を重ねてくれば

容易にわかってくる

そもそも

言語や記号を使用している時点で

根本から他者依存なのであり

だれにも読めず

だれともコミュニケーションできない

独自言語を作り上げてからでないと

「わたし自身の思考」の

ごくごく基礎的な足場でさえ

築かれようはない

 

だからさ

ものを考えるとか

ものを書くとか

よく見るとか

吟味するとか

そんなことをうそぶくあなたがたの

やることなすこと

ぜんぶ

無意味なんだってばさ

 

いい加減気づけよ

 

言葉

文字

論理

思念

それらは

どこまでも

いい加減に

適当に

そのつど機転をきかせて

まさに

神業的に

あやうく用い続けるほかは

ないんだって

 

いい加減気づけよ

 




現代の尊王攘夷のために

 

 

 

外部からの生活習慣や感性や思考の

とめどない流入や

侵略とも呼ぶべきレベルに達した

この国の流儀への無視や破壊に対して

ようやく

日本というものを守ろう

との声があちこちに響くようになってきたが

とりあえず日本人である

わたくしからすれば

「日本というものを守ろう」とかけ声されるのも

どこかもどかしく

どこかむずがゆい感じで

そもそも

「日本というもの」にずいぶん

いやな思いをさせられ

いたぶられ

苦しめられてもきたので

そりゃあ

この列島の生活流儀を無視して

よその流儀を平気で展開しようとする外国籍人に対しては

文化的侵略を阻止しないとな

とは思うものの

陰湿さや

いじめ体質や

根っからの全体主義村民性などまで

守る気には

なれんわなぁと

やっぱり思うのである

 

「日本というものを守ろう」とかけ声されるのなら

まだいいのだが

「日本を守ろう」とかけ声されると

おいおい!

その「日本」って

どんな「日本」なんだ?

まさか

わたくしの大好きな下剋上の戦国「日本」じゃなくって

徳川全体主義「日本」のことじゃ

あるめえな?

急ごしらえの薩長インチキ帝国主義国家「日本」のことじゃ

あるめえな?

田布施のドン百姓をすげ替えてメージテンノーとか呼んじゃって

フリーメイソンから武器弾薬を供給されて列島をまるごと乗っ取っ

成り上がり長州下層民たちの掲げた「日本」じゃ

あるめえな?

やはり

どうしても

思っちゃうのだ

 

江藤淳が

うっとりするような定義を

かつて

「日本」についてしたことがあった

 

自然と人間、

人と虫と獣と鳥、

生者と死者とが

渾然一体となって

つくりあげている空間を、

かつて

われわれは

日本と呼んだ。

(『自由と禁忌』)

 

「自然と人間、

人と虫と獣と鳥、

生者と死者とが

渾然一体となって

つくりあげている空間」

というところが

ミソで

江藤淳は

たんなる右翼ではなかったし

大日本帝国主義者ではなかったし

天皇賛美者でもなかった

「自然と人間、

人と虫と獣と鳥、

生者と死者」のすべてが

最大限のポリフォニー性を帯びて

降臨してくるところに

日本と呼ぶべき「日本」が

発生しうる

そう見ているところに

江藤淳の隔絶した日本主義があった

 

これをもとに考え直すと

「自然と人間、

人と虫と獣と鳥、

生者と死者とが

渾然一体となって

つくりあげている空間」に対して

攻撃と破壊を行い続けている日本人自身の

絶望的なまでにいかに多いことか

と思わされる

ヴァンス副大統領がEUでぶちかましたように

アメリカの敵はアメリカ内部におり

ヨーロッパの敵はヨーロッパにおり

日本の敵は日本にいる

とりわけどのあたりにいるかは

なんでもプレゼン過多の傾向のある現代では

今でははっきりと視覚化できるようにさえなってきた

 

「自然と人間、

人と虫と獣と鳥、

生者と死者」との

「渾然一体」感を損なう者たち

損なおうとする者たちは

だれか?

 

守ろうとするべきは

それらの者たちからなのであり

それらの者たちが

あきらかに

「日本というもの」から逸脱しているがゆえに

現代の尊王攘夷運動は

なにを以て「尊皇」とするのか

なにに対して「攘夷」するのか

よくよく対象を確定して

照準を定めていかないといけない