2026年3月23日月曜日

ニルヴァーナも幻のようなもの夢のようなもの

 

 


菩薩が衆生を涅槃(ニルヴァーナ)に導く

というのは

生半可に仏教を俗信する者たちの定番の観念のひとつだが

一切を「空」として見る般若経典のうちでも

大部の『八千頌般若経』は完全に否定し去っている

 

 

中村元によるサンスクリット原文からの和訳で読んでみよう*

 

 

そのときスブーティ尊者は、尊師に次のようにたずねた。

「尊師よ。〈求道者・偉大な人〉はこのように、偉大な甲冑に身をかためて、大乗に入って進み、〈大きな乗り物〉に乗っているのですが、その〈大乗〉とはなんのことなのですか? またどのようにして〈大乗〉に入って進んでいるのだと知るべきでしょうか? またその〈大乗〉はどこから出てくるのでしょうか? またなににたよってその大乗に入って進んで行くのでしょうか? またその大乗は、どこに安立するのでしょうか?またこの大乗によってだれが進んで行くのでしょうか?」

このように問われたときに、尊師はスブーティ尊者に次のように言われた。

「スブーティよ。〈大乗〉というのは、〈測られないこと〉(aprameyata)の名称なのである。〈測られない〉というのは、〔その徳が〕量られないからである。
 おまえは、『またどのようにして〈大乗〉に入って進んでいるのだと知るべきでしょうか? またその〈大乗〉はどこから出てくるのでしょうか? またなににたよってその大乗に入って進んで行くのでしょうか?』と問うたが、〔求道者は、六つの徳の〕完成によって〔大乗に入って]進んで行くのであり、〔求道者は〕三界のことがらから出て行くのであり、よりどころのあるところに入って進んで行くのであり、〈全知者であること〉のうちに安立するであろう。〈求道者・偉大な人〉は〔この大乗によって]出て行くであろう。
 しかもなお、かれは、どこからも出て行かないであろう。なにものにたよっても〔その大乗に]入って進んで行くことはないであろう。かれはどこにも安立しないであろう。しかし〈どこにも住しない〉という道理によって、かれは〈全知者であること〉のうちに住するであろう。しかしながら、だれも、その大乗によって過去に出て行った者はいなかったし、未来にも出て行く者はいないであろう。現在においてもだれも出て行かないのである。
 それはなにゆえであるか? 出て行く人も、出て行くための乗り物も、この二つのものがともに存在しないし、またありとは認識されないからである。
 このように、一切のものが存在しないのであるから、なにものが、なにものによって出て行くであろうか? スブーティよ。〈求道者・偉大な人〉が、偉大な甲冑に身をかためて、大乗に入って進み、〈大きな乗り物〉に乗っているというのは、このようなことなのである」。
Wogihara As.pp.94;98;104-105



このように言われたので、スブーティ尊者は尊師に次のように申し上げた。

「尊師よ。〈大乗〉〈大乗〉といわれますが、〔その大乗は]神々・人間・阿修羅をともなうこの世間に打ち克って、出て行くでしょう。その〔乗り物は〕虚空にも等しく、きわめて偉大であるがゆえに〈大乗〉なのです。ちょうど虚空のうちには無量・無数の人々を寄れる余地があるように、この〔〈大乗〉という]乗り物のうちには無量・無数の人々を寄れる余地があります。尊師よ。この〔乗り物]は、このようなしかたによって、〈求道者・偉大な人々〉にとって〈大きな乗り物〉〔大乗〕なのです。その〔乗り物の〕来ることも見られません。その〔乗り物の]出てくることも見られません。その〔乗り物の]出て行くことも見られません。その〔乗り物の]とどまることも見られません。こういうわけで、この大乗にとっては、過去の時期も認識されません。また未来の時期も認められません。また中間も認められません。むしろその乗り物は〔過去・現在・未来を通じて]同一なのです。それゆえに、偉大な乗り物は〈大乗〉とよばれるのです」。
 そのとき尊師はスブーティに、みごとだ、と言って、承認された。
 「みごとだ。みごとだ。スブーティよ。そのとおりである。そのとおりである。こういうわけで、この〔乗り物は〕もろもろの〈求道者・偉大な人々〉の偉大な乗り物なのである。もろもろの〈求道者・偉大な人々〉は、このことを学んで、〈全知者である境地〉に到達したのであり、未来にも到達するであろうし、現在にも到達するのである」。Wogihara As.pp.106-108

 

 

大乗仏教の「大乗」が

〈測られないこと〉(aprameyata)の名称である

ということは

見聞きしやすい短い経典では

なかなか

知ることはできない

『八千頌般若経』をみずから繙くことによってのみ

ようやく逢着することのできる情報である**

 

そうして

くり返される〈求道者・偉大な人々〉という呼び方は

自力で

全宇宙から自我の内奥や

縁起や因縁の全構造までを探索しようとする者たちのみを

徹底してエリート扱いする

厳しい仏教姿勢を表わしていると見るべきだろう

 

 

神々がスプーティに問うた場面では

このような教えが披露される

 

 

そのとき〔インドラを主神とする〕神々はスブーティ尊者に次のように問うた。

「立派なスプーティさまよ。それらの生きもの(衆生)が幻(maya)のようなものではあるけれども、幻そのものではないのは、なぜですか?」
 このように問われて、スブーティ尊者はその神々に次のように答えた。
 「神々よ。それらの生きものは幻のようなものです。それらの生きものは夢のようなものです。じつにこのように、幻と生きものとは不二なのです。別のものではありません。このように、夢と生きものとは、不二なのです、別のものではありません。神々よ。一切のことがらもまた、幻のごとく、夢のごときものなのです。聖者の流れに入った者(預流向)もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのです。聖者の流れに入って得た結果(預流果)もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのです。同様にひとたび還って来る者(一来向)も、ひとたび還って来る者としての結果(一来果)も、もはや還って来ない者(不還向)もまた、幻のようなものであり、夢のようなものなのです。独りさとりを開く者の境地もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのであります。完全なさとりを開いた人(仏)もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのです。完全なさとりを開いた人の境地もまた幻のようなものであり、夢のようなものなのです」。
 そこで神々はスブーティ尊者に次のように言った。
 「スブーティ聖者さまよ。完全なさとりを開いた人(仏)も幻のようなものであり、夢のようなものである、と、あなたはいわれるのですか? 完全なさとりを開いた人の境地もまた幻のようなものであり、夢のようなものである、と、あなたはいわれるのですか?」

スブーティは答えた。
 「神々よ。ニルヴァーナも幻のようなものであり、夢のようなものである、と、わたしはいいます。他のことがらについては、なおさらです」。
 神々はたずねた。
 「スブーティ聖者さまよ。ニルヴァーナでさえも幻のようなものであり、夢のようなものである、と、あなたはいわれるのですか?」

スブーティ尊者は答えた。

「ですから、神々よ。もしもニルヴァーナよりもさらにすぐれた、なにかしら他のあるものが別に存在するのであるならば、そのものでさえも、幻のようなものであり、夢のようなものである、と、わたしはいうでしょう。こういうわけで、マーヤーとニルヴァーナとは不二であり、別に分けられることはないのです。こういうわけで、夢とニルヴァーナとは不二であり、別に分けられることはないのです」。(Wogihara As., pp.158-160)


 

ニルヴァーナも幻のようなもの

「完全なさとりを開いた人の境地もまた幻のようなもの」であり

「夢のようなもの」

「ニルヴァーナよりもさらにすぐれた

なにかしら他のあるものが別に存在するのであるならば

そのものでさえも

幻のようなもの」であるとは

人類史上の言語表現における至言のひとつだろう

 

さらに進んで

「マーヤーとニルヴァーナとは不二」であり

「別に分けられることは」なく

「夢とニルヴァーナとは不二」であり

「別に分けられることはない」のならば

あらゆる迷いはそのまま悟りであり

現世はこのままニルヴァーナということになる

 

 

 

もう一度

スプーティに説いたブッダ自身の教えを

読み直しておこう

 

 

「しかもなお、かれは、どこからも出て行かないであろう。

なにものにたよっても

〔その大乗に]入って進んで行くことはないであろう。

かれはどこにも安立しないであろう。

しかし〈どこにも住しない〉という道理によって、

かれは〈全知者であること〉のうちに住するであろう。

しかしながら、だれも、その大乗によって

過去に出て行った者はいなかったし、

未来にも出て行く者はいないであろう。

現在においてもだれも出て行かないのである。」

 

 

 

 

*「中村元 現代語訳 大乗仏典1 般若経典」(東京書籍、2003)。ここに収められている『八千頌般若経』は部分訳であり、入門的に読むのがよい。

**テキスト全体に触れるには、「大乗仏典 2 八千頌般若経Ⅰ」「大乗仏典 3 八千頌般若経Ⅱ」(梶山雄一訳、中公文庫)が便利だろう。

 


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