2026年3月24日火曜日

アーラヤ識



 

仏教の唯識論では

認識作用の構造は六識を基本とする

 

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識だが

法相宗の唯識説では

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識までを前五識と呼び

意識を第六意識と呼ぶことがある

 

ここに

「汚れた意」である自我意識を加えて

それを第七末那識(マナ識)と呼ぶ

 

ここまでの七つの識を含み込む第八の識を

アーラヤ識というが

これについては

研究者たちによって理解や説明に揺れがある

 

アーラヤ識は

「七種の識となって顕われる素材(因)であり

表面にあらわれていない点で

潜在的なあり方の識

つまり

潜在意識とよんでよい」*

と高崎直道は『スタディーズ 唯識』で説明している

 

そして

こう続けて書いている

「七種の識が一瞬一瞬にあらわれては消えていくのにかかわらず

個人存在としての同一性が認められることの理由として

このような潜在的な意識の存在が想定されている」

 

 

『仏教の根底にあるもの』における玉城康四郞の説明は

もっとわかりやすいかもしれない

 

現実経験の世界は、各人が経験している世界であり、各人がそれぞれの世界を見ているのである。唯識思想は、その経験している世界の根源を突き止めようとするのである。そうしてみると、主体者(心)を離れて世界はあり得ないこととなる。この点を三界唯心と呼んでいる。これが唯識思想の大前提である。三界とは、欲界(欲望の世界)、色界(形態の世界)、無色界(形態もない世界、すなわち冥想=禅定のみの世界)であり、迷いの全世界である。このような全世界は、すなわち、ただ心であり、いいかえれば、ただ主体的世界であるというのである。
 三界唯心は、けっして哲学上の、唯物論に対する唯心論や観念論ではない。仏教としての唯識思想は、元来、このような現実経験の世界の外には問いようはないからである。
 さて、アーラヤ識は、こうした世界の根源である。それは、われわれ主体者の意識の根源であると同時に、経験されている世界の、存在そのものの根源でもある。それは深い無意識の領域の中に根ざしている。
 アーラヤ識のアーラヤは、「蔵」の意味である。それゆえに蔵識ともいわれている。英語では store consciousness と訳されている。その理由は、現経験(現行[げんぎょう]という、サンスクリット語で samudacara)の世界が、ことごとくその中に貯蔵されているからである。あるいは、現実経験のすべての種子[しゅうじ]を貯えているから、一切種子識ともいわれている。これは、アーラヤ識自身が貯えているのであるから、能蔵の意味である。ところが、逆に所蔵ともいわれている。それは、アーラヤ識から現出した現実経験の世界は、同時にアーラヤ識を包むものとなっているからである。いいかえれば、アーラヤ識の現実経験に対する関係は、現実経験を包むものとしては能蔵であり、逆にそれに包まれるものとしては所蔵である。そしてアーラヤ自体は、執着[しゅうじゃく]の源泉として執蔵といわれている。
 アーラヤ識と現実経験との関係をさらに検討していくと、右に述べたように両者は互いに能蔵・所蔵の関係であり、したがってこのような関係のなかで相互に独立的であるともいうことができる。そうしたなかで、アーラヤ識の種子から現実経験(現行)を現わし出す路線を種子生現行[しゅうじしょうげんぎょう](種子が現行を生ず)という。これは、アーラヤ識が一切種子識といわれる点から当然である。しかし、かくして現わし出された現実経験は、同時にアーラヤ識から独立的なものとして、逆にアーラヤ識の種子に対して影響を及ぼす。この路線を現行熏種子[げんぎょうくんしゅうじ](現行が種子に魚ず)という。すなわち、アーラヤ識と現実経験とは、一方では種子生現行でありつつ、同時に他方では現行熏種子という相互関係にある。いいかえれば、アーラヤ識は現実経験の世界を産み出しながら、同時にその世界はアーラヤ識に影響を及ぼしているということができる。
 さて、アーラヤ識と現実経験の世界とのこのような相互関係は、アーラヤ識を軸として、いわば横にひろげた空間的状況であるが、これに対して、アーラヤ識そのものの流れ、いわばアーラヤ識を縦に貫いていく時間的状況はいかがであろうか。アーラヤ識は果たして独立的な存在であろうか。
 実はけっしてそうではない。アーラヤ識は、無限の過去から、刹那々々に、それ以前の業によって熟している。つまり、現在刹那のアーラヤ識は、その前の刹那のアーラヤ識から結果し、熟しているのであり、その点からアーラヤ識を異熟識[いじゅくしき]vipaka-vijnana)と呼んでいる。ブッダの原始経典でいわれた業の果報(業異熱kamma-vipaka)と同質である。それが無限の過去から刹那々々に熟しつつ、目にもとまらぬ速さで流れている。
 このように見てくると、アーラヤ識は、無限の過去から、現実経験の世界を現わし出しながら、同時にその世界がアーラヤ識に影響を及ぼしつつ、急流のごとき速さで流れ去っている。それは、いわばアーラヤ識を軸とする、広大無辺な世界の、目くるめくような絵巻物の、果てしなき繰りひろげであるということができよう。これこそ唯識思想における縁起の世界である。
 いったい、この絵巻物の繰りひろげのなかに何が問題となるのであろうか。まったく問題はないかのごとくである。透徹して究明されたアーラヤ識の実相、すなわち人間存在の根源の実態がかくのごとくであるとすれば、一切の問題は、存在の根源たるアーラヤ識の縁起性のなかにことごとく解消してしまうであろう。
 しかるにアーラヤ識の根本問題は、厳然として存在するのである。それは、先ほど触れたアーラヤ識の執蔵たる点に在る。これほど微細に究明されたこの識の縁起性のなかで、どうして執著が起るのであろうか。その因由はまったく分らない。しかし執著が働いていることだけは明白であり、われわれが現に経験しているとおりである。
 このような執著の構造が、ヴァスバンドゥ(Vasubandhu世親、320-400頃)の「三十唯識』に示されている。それはマナ識の働きである。マナ識はアーラヤ識から産み出されて、かえってアーラヤ識を「我である、我がものである」と、誤って思うという。マナ識のマナは「思うこと」(manana)という意味であり、「思量」と訳されている。つまり、このようなアーラヤ識とマナ識との根本関係に自我意識が生じているのであり、しかもそれは誤想である。いいかえれば、われわれ人間存在の根源的なミステークが、この根本関係、すなわち自我意識に根ざしているということができよう。

近代哲学の確立者イマヌエル・カント(1724-1804)は、『純粋理性批判』の中で、認識の基盤として自己意識(Selbstbewusstsein)を置いている。それは先験的統覚(transzendentale Apperzeption)とも呼ばれている。同じ自己意識、あるいは自我意識ながら、カントの場合は認識の基盤であり、唯識の場合は、人間存在の根源的なミステークである。両者がいかに奇妙なコントラストをなしているかが知られよう。
 さらに、尼介なことには、マナ識たる自我意識は、底知れない無意識のなかに根ざしている。それは、日常生活のなかではほとんど意識されることはない。もとより意識される自我意識も存在していることは、日常経験のとおりである。それは、マナ識よりも表面的な意識、いわゆる心といわれるもののなかで起っている。その場合の自我意識は、起ることもあれば起らないこともある。しかし無意識のなかの、マナ識たる自我意識は、寝ても覚めても、二六時中、起っており、中止することがない。その我執を『成唯識論』では、倶生の我執といい、炊のように述べている。
 「無始時来、虚妄熏習の因の力の故に、恒に身と倶なり、邪教及び邪分別を待たず、任運して転ずるが故に、倶生と名づく」
 倶生の我執とは、いわば生れながらの、先天的な我執であり、始まりのない無限の過去から、迷いに迷いを重ねて流浪し、この身に付着している自我意識である。それは、意識上の分別を待たずに、元来、自然に生じている、といわれる。
 通常の、心の中で起っている我執を意識的自我意識であるとすれば、マナ識の我執は無意識的自我意識であるといえよう。しかもそれは、無限の過去から断絶することなく、二六時中起っているということが特徴的である。
 さて、これまで追求してきた主体の根源の実情が、ようやくここに浮んできたのである。それは、マナ識とアーラヤ識との根本関係に存する我執であり、無始以来、中断することなく持続している所の自我意識である。しかもマナ識の我執は、深い無意識のなかに在り、そのマナ識さえも、われわれはほとんど意識することができないのであるが、その我執の源泉は、マナ識のいっそう根底的な、執蔵としてのアーラヤ識に在るといえよう。
 では、仏教の究極の目当てである解脱はいかにして実現できるであろうか。それは、我執の源泉たるアーラヤ識の根本転換の外にはあり得ないであろう。そのアーラヤ識の転換はどうしたらできるのであろうか。
 アーラヤ識は、すでに述べてきた如く、人間存在の意識の源泉であり、さらに経験的世界そのものの根拠でもある。人間存在そのもの、あるいは世界の存在そのものが、アーラヤ識として、根源的ミステークに陥っている。そうだとすれば、われわれがいかに努力を重ねても、もはやアーラヤ識そのものに転換の力がないことは明白である。
 ヴァスバンドゥの兄であるアサンガ(Asanga 無著、310-390頃)は、『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』の中で、全人格的思惟(冥想、禅定)を行じつつ、慎重にアーラヤ識の所在を究明している。つまり、いかに冥想、禅定を深めても、ついにはアーラヤ識に帰着する外はない。いいかえれば、ただ禅定を深めるのみでは、アーラヤ識の転換、すなわち解脱は実現してこないのである。
 では、いかにしてその転換は達成されるのであろうか。アサンガは、次のようなただ一つの解答を提示するのである。
 「最清浄法界(さいしようじょうほっかい)より流るる所の正聞熏習(しょうもんくんじゅう)、種子(しゅうじ)となるが故に、出世心、生ずることを得」

   チベット語訳では、

「最清浄法界が顕わになる所の聞熏習の種子から、それ(出世心)は

   生ずる」

   となっている。

最清浄法界とは、まったく形を離れた純粋生命たる真実の世界である。その最清浄法界が、主体者に顕わになってくる。そのことは、主体者からいえば、全人格が耳となって、最清浄法界に聞きほれる。そうすると、その純粋生命が全人格に染みついて(すなわち熏習)、そこから初めて、人間の基盤(アーラヤ識)を超出する目覚めの心(出世心)が生ずる、というのである。
 これは、唯識思想における主体の根源たるアーラヤ識の転換の状況である。
 ここにおいて、われわれは直ちに思い浮べるであろう、あの菩提樹下におけるゴータマ・ブッダの目覚めの実景を。まったく形を超えた純粋生命たるダンマが、ゴータマに顕わになったとき、一切の疑惑が消失して、目覚めが実現したのである。そしてダンマはその全人格に滲透して、ついに貫徹したのである。ブッダとアサンガにおける目覚めの構造が、軌を一にしていることはいうまでもないであろう。
**

 

 

玉城康四郞のこの名論文は

現代において

そう多く読まれているともいえないが

とても面白い論考でもあるので

長々と引用してみた

アーラヤ識の概観を掴むには

なかなか好適な個所でもあるだろう

 

しかし

論考の終わりの部分は

アーラヤ識を超出する意思が強く出過ぎて

やや考察を急ぎすぎている気がする

 

どうして

「主体の根源たるアーラヤ識」を

転換しなければならないのだろう?

 

どうして

「人間の基盤(アーラヤ識)を超出する目覚めの心(出世心)」

が生じなければならないのだろう?

 

アーラヤ識を転換する意思も

仮に成ったとして

その転換そのものも

アーラヤ識を超出しようとする「目覚めの心」も

アーラヤ識の性質から鑑みれば

すでに

あらかじめ

アーラヤ識のうちに取り込まれているはずであろう

はじめから

無駄な戯れと定められているはずである

 

しかも

アーラヤ識をさらに含み込むものとして

第九識のアマラ識(amala-vijnana)を考える説もある

これは真諦の系統に出てくるが

アーラヤ識が転識得智したものと想定されている***

 

 

 

 

*高崎直道『スタディーズ 唯識』(春秋社、2018)、p.98.

**玉城康四郞『仏教の根底にあるもの』(講談社学術文庫、1986)pp.39-46.

***上山春平・梶山雄一編『佛教の思想 その原形をさぐる』(中公新書、1974)、p.111




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