映画を見る
デレク・ジャーマンの『ブルー』(1993)などと違って
ふつうの
ストーリー仕込みの映画を見る
と
いうことは
https://www.youtube.com/watch?v=Tc7jvNuKYHM
第三者視点だけを持つ
ことであり
第三者視点となることだけを押しつけられる
ことである
(いや、他のことも
いくらでも
言える
言える
とは思うが
ここに思念や思考の困難さがある
「他のこと」を
できるだけ多く
思考のラインの中に受けとめようとすると
思考のラインは崩壊する
崩壊してよいのだし
崩壊を呼び込むことこそが誠実なのだが
この狭量な世界では
単純明快な思考の川の維持が
求められ続ける)
第三者視点というのは
あるひとつの光景に対しては
ほとんど神の視点
と言えるかもしれない
事態のさなかにある当事者たちが
絶対に獲得できない
自分自身のその時の外貌に対する視点
当事者たちは
自分のその時の姿を
外から見ることは絶対にできないから
そんな視点を
つかのまでも持てる
(「持てる」もひとつの幻想だとしても)
だけでも
映画には独特の価値がある
思えば
美術、芸術、アートなるものの数々は
どれも
第三者視点の発生装置であり
この一点においてどれもが共通項を持つ
作品に対する際
鑑賞者はみな
第三者視点を強制される
作者でさえ
制作後の作品に対しては
第三者視点を以て対するしかない
作品はつねに
みずからが作品となった後の
作者の介入権を
峻拒するから
パゾリーニの『奇跡の丘』(1964)が
思い出される
https://www.youtube.com/watch?v=U63s0kZ1nVc
イエスが逮捕された時
ペテロはイエスを否認する
人々から
「お前はあの男の弟子だっただろう?」
と詰問され
ペテロは否認する
パゾリーニのカメラは
逃げていくペテロを追い
誰もいない細道にまで逃げのびて
涙を流しはじめ
壁に凭れかかって
悔恨から崩れ落ちるペテロを撮り
そこから
徐々にカメラを引き
距離を取って
ただ壁の下に崩れ落ち
ただ泣いている男として
ペテロを撮り続ける
第三者視点は
いわば愛そのものだ
助けもしない
助言もしない
しかし
誰であってもいいような姿で
誰かがなんらかの姿をとっているのを
見続ける
場合によっては
名への配慮もいらない
立場への認識もいらない
過去も経緯もいらない
ある人体が
ある姿で
ある場所に
その時
いる
第三者視点は
すべてを
平等に
そのように見る
そのようにだけ
見る
その瞬間の姿への
ありようへの
愛だ
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