小津安二郎の『東京物語』を見はじめて
「家中の家具の情報量の多さが気になった」
と言った若者がいた
「家具の情報量」
というのは現代らしい面白い言い方だが
こういう言葉でサッと表現されてみると
なかなかうまく言っている
と思わされる
たしかに
昭和50年代や60年代の日本の家には
けっこう
家具がいっぱい置かれていた
今の家は
壁面収納だの
階段下収納だの
家の中をさっぱりと見せるための
いろいろな収納が作られていて
ひとつの部屋に
家具をふたつもみっつも置くような風景は
少なくなった
むかし
井の頭線の池の上が最寄り駅の
世田谷区北沢1-12-4の二階に住んだ時
階下には平良さんという沖縄出身の初老の女性がいて
老いたお母さんと暮らしていた
平良さんがアメリカに暮らす親戚に会うために
アメリカに旅立った時
住まいの管理と庭の水やりを頼まれた
広くないが池もある緑濃い庭に
週に何度か水を撒き
株券がいっぱい仕舞われているという部屋の中を
異常がないかチェックする程度のことで
たいした作業でもないが
夏場だったので庭には蚊がけっこういて
蚊に刺されないように水を撒くのは
なかなか難儀だった
ともあれ
株券がいっぱいある引出しなどを見せられた上で
管理を頼まれたのだから
ずいぶんと厚く信頼されたといえる
平良さんの家の中は
それこそ「家具の情報量」が濃密で
居間には箪笥が四つほど置かれ
わずかな中央の空間には小さなローテーブルが置かれ
西の壁際には老母のベッドが置かれていて
それらの間をすり抜けてそろそろと歩かないと
部屋の中の移動は困難なほどだった
もっと広い家から越してきたので
それまで使ってきた家具類を
なんとか詰め込んだ暮らし方だった
北側のトイレに繋がる短い廊下には
カラーボックス程度の大きさの書架と
低い丸椅子が置かれていて
書架には本が詰まっており
丸椅子にも本がすこし積まれていた
そのあたりに近づくと
なぜか総毛立った
夏場で暑いというのに
そのあたりはなぜか寒い感じがする
北側なので
同じ家の中でも温度差があるのだろうか
と思った
ひと月ほどして
平良さんも老母も帰国し
特に問題もなかった管理中のことをちょっと話し
そういえばーーー
と北側の廊下の寒気のことを言うと
平良さんは
「ああ、あれ……」
と受けてから
こう言った
「あそこには
親しかった作家の本や
戴いた手紙や
いろいろな小さなものなどを仕舞ってあるんです。
昔は有名な人でしたが
ご存じかどうか……」
名を聞くと
火野葦平だった
平良さんは
かつて新宿で沖縄料理屋を経営し
そこでは
文人がずいぶん常連となり
中でも火野葦平とは
かなり懇意の仲になったようだった
火野葦平は
福岡県若松市の自宅の書斎「河伯洞」で
1960年1月24日に
53歳で睡眠薬自殺をした
「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、
或る漠然とした不安のために。
すみません。
おゆるしください、さようなら」
という言葉が
書き残されていた
平良さんの家の北側の廊下で
わたしが感じた寒気は
著書や手紙や
彼が平良さんに送った物品などに
まだこびり付いている火野葦平の遺恨だったかも
しれない
平良さんが営んでいた沖縄料理の名は
聞いたはずだが
もう忘れてしまった
わたしが早稲田大学の大学院に通っていたので
「早稲田の先生がたにも
ずいぶんご贔屓にしていただいて…」
と平良さんは言っていた
仏文学者の新庄嘉章などはよく食べに来たというから
いっしょに平良さんの店を訪ねた人たちも
わたしの先生たちの中にはいたはずだろう
新庄嘉章といっても
文芸好きの人たちの間でも
もう誰の口にも上らない
特にアンドレ・ジッドの翻訳で有名だったが
なにかといえば『狭き門』の名を聞かされた時代と違い
いまではジッドももう流行らないし
新庄嘉章の翻訳も
そろそろ古く感じられるようになってきた
かもしれない
ラクロの『危険な関係』などは
新庄嘉章と窪田般彌の共訳でわたしは読んだが
今あの訳を読み直してみたら
どう感じるだろう?
早稲田の仏文では比較的派手な装いをしていた
小林茂教授が
新庄嘉章全訳の『ジッドの日記』が1999年に全訳出版された際に
いろいろと話してきかせてくれたが
つねに
あれもこれもと淀みなくしゃべり続ける人なので
どんな話だったか
もう忘れてしまった
厖大といっていい量の
フランス文学を生涯にわたって訳し続けた新庄嘉章だったが
流行の推移や
世間の文学青年の好みの推移のせいで
新庄嘉章の訳文がどんな味わいだったか
世の中は
もう忘れてしまった
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