2026年8月22日土曜日

たゆたえども沈まず

 

 

    ノラもまた考えた。

    廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。

    帰ろうかしら。

           太宰治『晩年』(1936)

 

 

  

言葉というのは

しっかりとコントロール下におくべきだ

と考える人がいる

 

ものを書く人や

知性や理性に秀でていると見せたい人や

ちょっと上等の部類に属していると気取りたい人には

そう考える人が多い

 

そういう人たちが書いたものや

しゃべった話が

それではすごく面白いか

すばらしいか

感動的か

よく切れる刀のように研ぎ澄まされて

こちらの精神を

キリッとさせてくれるか

といえば

意外とそうでもないのを

さんざん経験してきているので

言葉コントロール主義も

まあ

そこそこにしておいたほうがいいと

経験上

思ったりする

 

しっかり言葉をコントロールできた

と名声の高かった作家たちも

時代が経ってみると

コントロールした言葉づかいが古びてしまって

味があるとか

冴えているとか

キリッとしているとかいう以前に

もう埃臭くって

キリッと感を味わうよりも

ちょっと距離を取りたくなったりする

数十年や百年程度で

こんな古びた印象を生むようになってしまうのなら

生きているあいだ

ヘンなコントロール主義に固執しないで

もっと思いつくままに

生き生きと

無責任にいい加減に

時にはダラダラと書いてくれたほうが

よっぽど面白かったのに

と残念に思ったりする

 

ちょっと昔

キリッと派の代表格だった志賀直哉や

削ぎ落とし派の代表格だった川端康成には

ダラダラ饒舌体の太宰治は

ずいぶんと軽蔑されたらしいけれど

現代において彼らの文章を見直してみると

太宰の言葉のほうが生き生きと動き続けていて

どう見ても勝ちである

 

言葉というのは

うまくコントロールしよう

しよう

としながら

うまくコントロールできないで

蛇行したり

迂回したり

ぐるぐる同じ場所に

くり返し戻ったりしながら

乱気流に飲まれた飛行機のように

なさけない酩酊ぶりに陥るのも

言葉を使う時の愉しみのひとつなので

そんな言葉酔いを

たびたび受け入れて

おっと

墜落!

というところで

急に

ヒョイと機体を立ち戻す

ということで

べつにかまわないと思う

 

パリ市の紋章の銘の

 

たゆたえども沈まず

Fluctuat nec mergitur

 

という言葉は有名だが

これは

言葉を使ってしゃべったり

書いたりする時の

極意のようなものにも思える

 

 

 

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