2025年12月3日水曜日

かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて


 

 

日々の健康のための体操はいろいろあれど

ストロベリーソングオーケストラによる

テラヤマ修司体操は

余の偏愛してやまぬ体操である

https://www.youtube.com/watch?v=SA9MXI05mDw&list=RDSA9MXI05mDw&start_radio=1

 

 

セリフというか

カケコトバというか

ラジオ体操のメロディーをマイナー調にしたものに添わせる言葉は

寺山修司の歌集『田園に死す』 (1965)から採られており

それが

内容とみごと不調和して

声調高くはっきりと発音されていて

かなしく

わびしく

たのしい

 

寺山修司の短歌は

初期の『空には本』(1958)を中心とする

アイロニーに溢れつつも

明るさと夢と幻滅と諦念の交錯する

晴朗かつカラフルな解放感の伴われた作品群こそ

時代を超えて愛され続けていく

とは思うものの

『田園に死す』のあのおぞましさや暗さや虚無への傾斜は

令和の現代に至って

意想外に同時代性を増してきている気がする

 

大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ

 

新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

 

地平線縫ひ閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針

 

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

 

間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子

 

かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭

 

生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある一本の釘

 

たった一つの嫁入道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり

 

売られたる夜の冬田へ一人来て埋めゆく母の真赤な櫛を

 

亡き母の真赤な櫛で続きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり

 

トラホーム洗ひし水を捨てにゆく真赤な椿咲くところまで

 

わが切りし二十の爪がしんしんとピースの罐に冷えてゆくらし

 

江戸時代の東北の悲惨な生活を

なにひとつ解決しないまま

明治時代の富国強兵潮流に巻き込まれて

日清戦争から日露戦争に東北民は駆り出され

さらに第二次大戦での徴兵に駆り出されて

哀しみも恨みも解消する場所を持てずに

心と精神のなかに恐山をいくつも抱えつつ

廃れた文物のゴミ屋敷のようになっていくばかりの

昭和のニッポンジンの魂とからだを

『田園に死す』の頃の寺山修司は描き出そうとした

というよりカルチャー的イタコとなって

ニッポン霊たちの口寄せとなっていったものだった

 

 

そんな寺山修司の徹底的影響下に活動している

と思われる

ストロベリーソングオーケストラは

根暗系の正統の継承者と呼ぶべき見事な偏執ぶりで

おそらく現代日本のロックにおける最高のグループのひとつだろう

余の愛してやまぬ

真に心安まる

魑魅魍魎的激音の世界である

 

 

 

 

MV】二十一世紀狂闘旗手/ストロベリーソングオーケストラ

https://www.youtube.com/watch?v=ztUj72o-KH8&list=RDztUj72o-KH8&start_radio=1

 

臓物にジグソウ(MV)/ストロベリーソングオーケストラ

https://www.youtube.com/watch?v=TQKhfYmhIEA&list=RDTQKhfYmhIEA&start_radio=1

 

切断ダリア /ストロベリーソングオーケストラ【公式MV

https://www.youtube.com/watch?v=x7mLb_0jQlo&list=RDx7mLb_0jQlo&start_radio=1

 

 




原則的に子どもは作らない

 

 

 

安倍晋三銃撃犯

とされる山上徹也被告の公判について

報道を聞きながら

あのシロウト散弾銃で安倍晋三ひとりだけを銃撃できるはずがない

という

厳然たる物理的事実を押し潰して

粛々と裁判を続けようとする日本の完全な腐敗を

その臭気を

くりかえし嗅ぐ

 

ははん

やっぱり革マル派か

警察や

公安内部の

 

世間の注視を

統一教会と被害家庭の問題に

逸らそうとし

真の実行犯や実行意図を

永遠にぼかすために

 

と思い

ちょっと離れた話に見えるが

松崎明のことを

思い出す

 

革マル派副議長にしてJRの妖怪といわれた

松崎明

 

階級闘争を捨て

労使協調路線に転向すると宣言し

革マル派と離別した

とされる

松崎明だが

これは大がかりな偽装転向で

現実には

JRを革マル派の巨大な貯金箱とするのに

成功した

とりわけJR東日本とJR北海道は

現在も

革マル派の完全な支配下に置かれている

 

カモフラージュでやられたふりをする

ということもあるにせよ

警察や公安の秘密連絡網が

革マルにすっかり傍受されていることからも

警察も公安も革マルの隠然とした支配下にあると

見るほかない

 

そんなことより

面白いのは

もっと本質的な姿勢にかかわること

 

革マル派では

結婚は基本的に構成員同士でする

 

原則的に子どもは作らない

 

というのも

全地平でのマルクス主義の窮極の体現者たらんとする彼らは

革命の足枷を増やすのを避けるから

 

どう教育しても子どもは8割がたは教化できないもので

戦力にはなり得ないのだ

 

子どもを持てば

人間的弱さや

不確定要素を増大させるだけ

となってしまう

 

子どもは作らない

ということ

 

なるほど

と思う

 

革命は革マル派だけの専売特許ではないが

子どもを作らない

ということ

首肯できる

 

革マル派よりもはるかに矯激な

21世紀カタリ派も

同じことだろう

 

 

 

 

◆革マル派はなぜ『ヤバい』のか?

https://www.youtube.com/watch?v=uzuRN_t5wl0

 





2025年12月2日火曜日

世の老病死の虜たちを見よ

  

 

 

本当の支配慾というものが、

物静かな形をしていることを知らなかったのである。

三島由紀夫 『豊饒の海 第4巻 天人五衰』

 

 

 

 

 

三島由紀夫がなぜ

じぶんから進んで腹を切り

じぶんから進んでじぶんの首を切断させたのか

いろいろに推測され続けているけれど

(なんともう55年前のことだ!)

あれはただ

じぶんのあらゆる属性へのコントロール権を

とにかく徹底させたい

という

熾烈な欲望のなせる技

だろう

ぼくはひとりで結論している

 

生老病死のすべてが

あらゆる方向から

角度から

じぶんというもののコントロール権を奪おうとしてくるのが

この世のつかの間の滞在の

基本性質で

人はなんとかこれと政治し続けて

多少のコントロール権を確保しているつもりになりながら

最終的な心身の絶対的終焉へと

進んでいかねばならない

 

三島由紀夫という人は

いやしくもじぶんに纏わってくるすべてについて

絶対権力を手中にし続けたかったので

いやおうなく押し寄せてくる最強の敵の

老病死という

コントロール権の剥奪王たちに対し

あらかじめ

じぶんからのコントロール権発動を以てして戦いを挑んだ

彼は死に襲いかかったのであり

肉体のコントロール権の徹底消滅ということに対し

心身のコントロール権の最前線の皮膜の部分で先制攻撃を敢行した

肉体の崩壊と廃棄そのものが至上の勝利であるような

複雑で重層的な戦略を遂げた

 

このことは

じぶんがまだ「生」の波にうまく波乗りできているつもりの人には

わからない

老病死の数えきれないダニに食いつかれてくる頃になって

これらの無数のダニの徹底駆除こそ

コントロール権絶対保持主義者の三島由紀夫の意図したものだった

わかってくる

 

世の老病死の虜たちを見よ

コントロール権を少しずつ失って行く彼ら

あるいは

すっかり失った彼らが

三島由紀夫の戦略と戦術を笑っていた頃の

「生」に波乗りできているという愚かな思い込みの行き着く先を

見よ






この国の「国立」はこうあるべきじゃのゥ

 

 

東京駅に近い

国立映画アーカイブの

「逝ける映画人を偲んで」

という企画のパンフレットには

「日本映画の輝かしい歴史を築き

惜しまれながら逝去された映画人の方々を

故人が関わった映画作品の上映を通じて追悼する」

ための84作品が挙げられていて

いわゆる名画も

文科省や教育委員会が推薦しそうな

教育的とさえ言えそうな映画も

いっぱい目につくが

 

飽きずに見続けていると

小沼勝の「妻たちの性体験 夫の眼の前で、今…」(1980)とか

「見せたがる女」(1981)とか

久保新二の「絶倫!好色一代[『ニッポンの猥褻』改題版](1993)とか

曽根中生の「わたしのSEX白書 絶頂度」(1976)とか

藤浦敦の「絶倫海女 しまり貝」(1985)なども

しっかり拾われていて

国立映画アーカイブことNational Film Archive of Japan

時流にも政局にも流されずに

頑張っておるのゥ

 

この国の「国立」は

こうあるべきじゃのゥ

 

 

https://www.nfaj.go.jp/

 






言葉の湯葉を

 

 

 

見えない水面に

やわらかく出来てくる皮膜

言葉の湯葉を

やはり見えない指で

掬い続ける遊び

 

夜が明けても

暮れがたも

 

破れないように

縒れないように

(誰の指?)

見えない指で

浮いて

いる

見えない水面を

さざ波立てさえせずに

掬う遊び

 

言葉の湯葉を

 

移植手術にていねいに使う

特別の極薄の

人工粘膜のように

 





きみだけが死ぬ

 

 

 

きみだけが死ぬ

死ぬのはきみだけ

死ぬのはいやなものだよ

死ぬのはさびしいよ

むなしさの極地だ

過ごして来た時間がぜんぶ無意味になり

(というのも

時間内に展開する経験は

時間が継続することでのみ意味を持つからだ)

やり遂げたと自己満足してきたことがすべてきみのきみ性から剥がれ去り

まだまだやりたかったことも

やれる可能性の向こう側へ一瞬に飛び去ってしまう

きみは身体を失い

顔を失って

焼却炉のなかで脳を焼き尽くされ

きみの頭蓋骨の裏側は火葬立会人たちの目に晒される

そんな物質的な結末はまあどうでもいいが

きみだけが死ぬ

死ぬのはきみだけ

他のみんなは死なないよ

誰が死ぬ時もいつも死なない他のみんながいて

死ぬのはきみだけ

きみだけが死ぬ

身体とこころのコントロールをすべて失って

思いどおりになにかができるというああ!懐かしいまぼろし

なにひとつ動かせず想起できず感得できなくなって

いざ死んでみたら霊も魂もきみにはなんにもないきみもなくて

ああ!なんという輪郭のなさ!かたちのなさ!温度のなさ!

もはや知的だの感情的だのももうどうでもよくなり

(だって知も感情もなんにもなくなるのだから)

感覚も認識も識別も偏見も妄想も誤認も正見も理解もなく

きみだけが死ぬ

死ぬのはきみだけ

そして底なしに忘れられていき

きみのすべては最初からなにもなかったことになり

何十億年も前どころか宇宙開闢以前の無のスープだけとなり

歯ぎしりしようがジタバタしようが

歯もなければ手足も筋も筋肉も神経も贅肉さえもなく

なぁんにもなく

きみだけが死ぬ

死ぬのはきみだけ

人類というきみ

存在というきみ

時間というきみ

わたしぼくあたしおれという自意識のきみ

 

 




ワイセツな熊!

 

 

 

群馬県には

沼田市というのがあるそうで

1128日未明

そこのJR沼田駅東口の公衆トイレ内で

男性がクマに襲われた

そう

なのだ

 

トイレに入ってきて

男性を襲う

とは!

 

いったい

どこを襲われたのだろう?

邪推して

しまう

ではないか!

 

なんと

ワイセツな

熊!

 

 


 

https://news.yahoo.co.jp/articles/bcc7f8eedf054a031d839f026b36f89dfe3bdf81





うつくしい12月

 

 

うつくしい12月が来た

 

12月はすべてがうつくしい

すべてが楽しい

 

忙しくもなるので

見落としがちに

なるけれど

 

12月はすべてがうつくしい

すべてが楽しい






幽霊いじめ

 

  

 

学校の

あそこの

暗い廊下には

よく

幽霊が

出るので

 

ちょっと脇に隠れて

幽霊が通っていった後に

そろり

そろうり

ついていって

 

幽霊の背後に

ぴったり

貼りつくようにして

ふぃーっ

と口から細く

風を

送って

やってから

 

ワッ!

 

と脅かしてやるのが

好き

 

大好き






2025年11月30日日曜日

Sing of good things not bad


 

 

ある瞬間に

なにを言葉にしたらいいか

なには言葉にしないほうがいいか

 

なにをどんな言葉に繋げたらいいか

繋げないほうがいいか

 

とっさに

正しく知るのはむずかしい

とても

とても

 

思いながら

あかるい陽光のなかで

きらきら赤らむ

桜の葉の紅葉の下を歩いていった

 

Mp3のプレーヤーから

コードを伸して聞いていたのは

たまたま

カーペンターズの「Sing」で

 

Sing of good things not bad

Sing of happy not sad

 

不意をつかれるほど

つよく

ただしく

響いてきた

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=HjDumXJPMY4