彼処にこそ私は生きた。
ボードレール 『前世』
C’est là que j’ai vécu.
Baudelaire « La vie antérieure »
昔は
自分の外で起きているさまざまなことが
もっと
自分自身だった
自分自身に属していた
他人事ながらも自分自身に切実なことのように感じられた
と
わたしの場合は
感じられる
そんなことはない
昔だって
外で起きているさまざまなことは
「自分自身」とは無関係だ
と感じられたものだし
現にベトナム戦争も「自分自身」とは無関係に続いて
いつのまにか終わったし
中国の異常極まる文化大革命にしたって
日本にいる「自分自身」とはなんの関係もなしに始まり
多くの死傷者や残虐や被害を出して
いつのまにか終わった
と
そう言われれば
それもそうだとしか言えないが
それでも
そうした遠い場所での出来事は
「自分自身」のどこか見えづらいところ
足の裏のちょっと見えづらい箇所や
背中の中央の指さえうまく届かないところや
あきらかに「自分自身」に属していながらも
食道や胃の粘膜のどこかのような
目も指もすぐには届かないところで起こったこと程度には
感じていた気がするし
そう感じるべきだと思っていた
そうした「昔」と比べると
今は
「自分自身」と外との関係には
だいぶ違いが生じている気がする
あくまで
自分が感じる「気」の問題で
客観的にどうこう断じたいわけではないのだが
どうも
「自分自身」と外とは
すんなり繋がってはいない感じで
かといって
外で起きているさまざまなことが
「自分自身」とは無関係だ
と感じられるわけでもなく
非常に微妙な感触を
日々
確かめ続けないと
当座の世界観さえ
なかなか
うまくは持てない気がしている
こうしたわたしの感触と
そのまま
繋がっているわけではないものの
ヴァルター・ベンヤミンは
ある哲学的エッセー*で
「自分自身」と
自分が関心を持つことのうちの外的な事柄との
関係について
「人間の内的関心事項」と
「人間の外的関心事項」という表現を用いながら
19世紀から20世紀にかけての
ジャーナリズムの発展とともに
「人間の外的関心事項が自分自身の経験に同化される機会が減少」
と述べている
新聞は、そのように〔外的関心事項と経験の同化が〕
ベンヤミンの思考の長所は
「情報」を考える際に
「内的関心事項」と「外的関心事項」という二項を用いつつ
「経験」という概念を加えてみたところにある
これによって
人間にとっての「自分自身」にあたる「経験」に
同化されて行き得る「情報」と
同化されて行きづらい「情報」とを
区別しうる可能性が出てくることになった
また
「さまざまな伝達形式」のうちで
最良のものとして特権化しているわけではないものの
「伝達の最古の形式」としての「物語」を
「出来事を経験として聞き手にもたせてやるために
出来事を報告する者の生のうちに埋め込む」能力を持つものとして
確認し直している
1940年時点で死去しているベンヤミンが
はやくも
「ジャーナリズムの意図は
出来事が読者の経験にかかわってくる可能性がある領域から
出来事を遮断しておくことにある」と見抜いており
「経験から情報を遮断する」ばかりでなく
「
実証しようと努めたカール・クラウスを想起しつつ
ジャーナリズム的情報の扱いにおいては
「情報が『伝統』のなかへ入ってゆかない」という結果ももたらす
と指摘しているのは
慧眼と言わざるを得ない
*ヴァルター・ベンヤミン「
**河出文庫(2011)の山口裕之訳による。
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