2025年12月18日木曜日

ナマへ、やすらひ花や


 

 

 

12月はじめから1月の半ば頃まで

奥三河の各地では

花まつりが行われるが

ちょっと調べてみたら

はやいところでは

11月はじめから始まっていた

https://aichinow.pref.aichi.jp/features/detail/125/

 

 

日本中の八百万の神々を花宿に勧請して

きびしい夜寒のなかを

はげしく踊り明かすのだという

 

大まさかりを持った鬼の舞いもあれば

花笠を被った稚児の舞いもある

 

多くの花を咲かせて

五穀豊穣となるように祈る

予祝のまつりで

神人和合や

無病息災の願いも伴われる

現在では

国の重要無形民俗文化財とされている

「て~ほへ、てほへ」という囃子ことばが

特徴的であるという

 

囃子ことばといえば

「ナマへ、やすらひ花や」

というものも

平安時代の終わり頃にあった

 

花や咲きたるや 

やすらひ花や

富草の花や

富をせば

御倉の山に

余るまで

命を乞はば

千代に千代添へや

 

こういう詞章に

いちいち

「ナマへ、やすらひ花や」

と囃していくのだ

 

この歌は

鳥羽院の院政の頃

久寿元年(1154年)の四月

京の児女が作りものを拵え

鼓や笛で囃子ながら

紫野社(今宮神社)に参る時のもので

「やすらひ(夜須礼)」と呼ばれた

 

富草というのは稲で

稲の花がたくさん付いて

豊かに実るように

命の千代を重ねるように

と願う

農耕の讃歌である

 

「ナマへ」というのは

南無阿弥陀仏が訛ったものとみられ

花の散る頃に流行りがちな疫病を払うための

鎮花祭が

念仏と習合したものと考えられる

 

とはいえ

この久寿元年のやすらひ花の祭は

勅によって禁じられた

「久寿元年四月、近日京中児女、備風流調二鼓笛、参紫野社、

世號之夜須礼、有勅禁止」

と『百錬抄』にはある

http://www.imamiyajinja.org/history/

 

「その行装が華美に過ぎた」ためか

と今宮神社の説明にはあるが

歴史家の林屋辰三郎は

民衆の結集を平安貴族が恐れたためだろう

と推測している

やすらひ花の祭は

社会不安のなかを生きる民衆の

不満のはけ口となっており

時あたかも

久寿元年の二年後には

保元の乱が起ころうとしている

この乱自体は貴族の内訌を原因とするが

武士が力を持ってきていた時で

世相の不穏さは感じられていただろう*

 

林屋辰三郎によれば

王朝の人びとは

花を神のよりしろと見ていた

じぶんの心を託すものでもあった

歌をひとに送る時には

花を添えて心を通わせたが

そこには

じぶんと神とが

乗せられて行った

 

散る花を鎮める

やすらひ花の祭は

やがて

花の散る四月だけではなくなっていき

もともと

唐風文化の盛んだった頃は

花といえば梅でもあったので

花のイメージは桜に限られることもなくなり

稲の花ももちろん含み込んで

農耕と命の繁栄に繋がるものとして

あらゆる花を

よりしろとして見ていくようになる

 

花の民衆文化は

こうして

「ナマへ、やすらひ花や」の先へ伸び

ひろがり

今へと通じてくる

 

 

 

 

*「日本史のしくみ 変革と情報の史観」(林屋辰三郎 梅棹忠夫 山崎正和編、中公文庫、1976)、pp.68-70.参照

 

 




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