正岡子規は『病牀六尺』にこう書いている
余は今まで
禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事か
と思つて居たのは間違ひで、
悟りといふ事は如何なる場合にも
平気で生きて居る事であった。
至言であり
数多い禅坊主たちでも
ここまで
わかりやすく言い切れる者は少ないだろう
結核菌に脊柱を冒されて脊椎カリエスになり
臀部や背中に穴が開いて
膿が流れ出る病状が6年ほど続いて死に至るのだが
自分を介護する母や妹には粗食を強いながら
自分だけは飽食をし続けた子規にして到達し得たのが
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事」
という境地だった
嵐山光三郎はこのようにまとめている*
『病林六尺』
すさまじい食欲である。
三度の食事と間食と服薬とカリエス患部繃帯の交換の繰返しのなかで
淋しさの三羽減りけり鴨の秋
と詠んでみせる。
病床のうめき声が油枯れの肉体から木枯しのようにひゅうひゅうと
「歯ぐきの膿を押し出してまた食い
便を山のように出す」
というのが
正岡子規の真骨頂であり
嵐山光三郎は
迂回せずに
ここをよく捉えている
「歯ぐきの膿」というのは
体中に結核菌がまわって発症した
歯周病であろうから
あの歯周病患者独特の臭気も
子規の周囲には漂っていただろう
『仰臥漫録』にはこうある
「歯茎から出る膿は
右の方も左の方も少しも衰へぬ。
毎日幾度となく綿で拭ひ取るのであるが
体の弱つて居る日は
十分に拭ひ取らずに捨てて置くこともある」
そもそも
自分では便所にもいけない身体なので
糞尿の臭いも
つねに
部屋には籠もっていたはずである
子規の寝たきりになっていた
小さな部屋での
生活というか
生き延びというかを
子規自身でこう記している
病牀六尺、これが我世界である。
歯茎からの膿の記述を
すでに引用したが
『仰臥漫録』のそのあたり全体も
まとめて見直しておこう
この頃の容体及び毎日の例
病気は表面にさしたる変動はないが次第に体が衰えて行くことは争
腸骨の側に新に膿の口が出来てその近辺が痛む、
繃帯は毎日一度取換へる。これは律の役なり。尻のさき最(
肛門の開閉が尻の痛所を刺戟するのと腸の運動が左腸骨辺の痛所を
睡眠はこの頃善く出来る。
歯茎から出る膿は右の方も左の方も少しも衰へぬ。
物を見て時々目がちかちかするやうに痛むのは年来のことであるが
朝々湯婆(たんぽ)を入れる。熱出ぬ。
食事は相変らず唯一の楽(たのしみ)
さしみは醤油をべたとつけてそれを飯または弱の上にかぶせて食ふ
佃煮も飯または粥の上に少しづつ置いて食ふ。
歯は右の方にて噛む。左の方は痛くて噛めぬ。
朝起きてすぐ新聞を見ることをやめた。目をいたはるのぢや。
食前に必ず葡萄酒(渋いの)一杯飲む。
子規は
短歌において
浮薄な感情や感傷を排した
シャープなレンズによる撮影のように
写実にクリアに徹しようとする新境地を拓いたが
病牀でのこれらの文章を見ると
精神も澄み切ったレンズそのもののような箇所があったのが
よくわかってくる
こういった方向性から逃げて
お花畑の
パステルカラーの浮薄なお文芸に流れようとも
誰にであれ
背が曲がり
尻が削げ
フレイルよろしく震えながら
わなわな摺り足のようにしてかろうじて歩むような
もはや表情さえほとんどない
老耄の日々が来たり
予期せぬ病による衰弱も来て
「食ふた者は少しも消化せずに肛門へ出る」事態や
「便通が催された時これを猶予するの力もなければ
奥の方にある屎(くそ)をりきみ出す力もない」事態や
「体の痛むため夜中幾度となく目をさましてはまた眠る」状態や
「衰弱のため何もするのがいやでただぼんやりと寐て居る」状態は
かならずや襲いかかってくるだろう
心身状態における生老病死のリアルなるものは
どれだけそこから逃れようとしても
万人に襲いかかってくる
流行のファッションを追っても
ブランドものでつかのま身を飾っても
精神異常の証左でしかないキャラものを
ごそごそバッグにぶら下げても
男女みな行き着く先は子規の病牀である
ふと
思い出してしまうのは
子規とは隔絶した俗謡ながら
あの
いしだあゆみの
『あなたならどうする』
だったりする
https://www.youtube.com/watch?
*嵐山光三郎 『文人悪食』(新潮文庫、1997、pp.56-66)
**正岡子規 『病牀六尺』(岩波文庫、1984改版、p.7)
***正岡子規 『仰臥漫録』 (岩波文庫、1983改版、pp.124-125)
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