史学科に入る現代の学生たちは
まず先生たちに一喝されて
坂本龍馬なんぞを格好いいと思ってちゃいかん!
あんなのは司馬遼太郎が捏造したインチキだ!
と叩き込まれるそうなのだが
幸徳秋水が恩師の中江兆民について描いた「兆民先生」を見ると
坂本龍馬の傑物ぶりも
案外嘘八百でもないように思える
当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、
奇なる哉、坂本龍馬君を崇拝したる当時の一少年は、
中江兆民は
坂本龍馬と同郷の高知出身で
17,8歳頃から洋学に志し
はじめは
萩原三圭や細川潤次郎に就いてオランダ語を学んだが
19歳で藩の留学生として長崎に行き
平井義十郎に就いてフランス語を修めた
この平井義十郎は
英語とオランダ語とドイツ語とフランス語を習得し
長崎の洋学講習所の済美館学頭となり
維新後は太政官大書記を経て
アメリカ公使を務めた
19歳にして凄い先生に就いたものだが
幕末の世間の狭さと知的沸騰が
いろいろな道の達人たちと若者とのこんな出会いも
案外と容易にしていた
それにしても
坂本龍馬が梅毒に罹っていて
額の髪が抜け上がっていたなどとは
公めいた文書ばかり見ていては
なかなか
わからないことだろう
長崎でフランス語を修めた兆民は
江戸に出ようと思ったが
乗っていく外国飛脚船の船賃がない
そこで同藩の先輩の岩崎弥太郎に頼むのだが
25両という船賃はなかなか高額で
一書生ごときにはなかなか出してはくれない
たまたま土佐藩の後藤象二郎が
藩命を受けて汽船購入のために長崎に来たので
漢詩を作って頼みに行くと
意気盛んな兆民青年をおもしろがって
後藤象二郎は船賃を出してくれた
江戸に着いた兆民が就いたのは
当時の日本における仏蘭西学の泰斗の村上英俊である
下野(栃木)に生まれ
江戸で蘭学を学んで信濃国で藩医となり
その後佐久間象山の勧めでフランス語を修め
日本の「仏学始祖」と呼ばれるようになった
村上英俊は
明治元年に深川猿江町の真田邸内で
「達理堂」という私塾を開き
フランス語を教えて生活の糧としていたという
ここで学んだ学生の数は429人に達し
なかには
複本武揚、中江兆民、浜尾新、加太邦憲、磯部四郎,栗塚省吾など
著名な人物もいた
フランス語を教える私塾としては先駆的だったが
明治5年から9年頃にかけては
外国語を教える学校・私塾は100校あまりに達し
明治6年の記録では
東京外国語学校だけでも
生徒数453人のうち
フランス語科生は75人となっている
ちなみに中江兆民は
学術的に他の学生に抜きん出ていた
ということもあるかもしれないが
偉がって態度が悪かったらしいこともあって
村上英俊から破門されている
深川という立地も悪かったかもしれない
「深川の娼楼、所謂仮宅に留連し」
と幸徳秋水は書いているが
この高知人は娼家遊びが過ぎたのだろう
フランス語塾として先駆的だった
村上英俊の「達理堂」は
明治10年には閉塾を余儀なくされてしまう
この頃になると
村上英俊のフランス語の発音では通じない
といった悪評が立つようになった
彼は多くの学術書を著し
『三語便覧』『五方通語』『仏蘭西詞林』などの辞書を編纂し
日本初の本格的な仏和辞典『仏語明要』も編纂したが
そこに記された発音表記からすると
フランス人に通じる発音ではなかったため
後から出てきたフランス語修得者たちに
自然と越されて行くことになったのだろう
とはいえ
化学にもよく通じ
ヨードの製法やメッキの製法
爆薬製造法なども研究し
学士院会員となり
レジオンドヌール勲章も受けた功績は
幕末から明治にかけて
多としなければならない
晩年病んで
落魄した村上英俊を
中江兆民はたびたび慰問し
師恩に報いたと
幸徳秋水は伝えている
村上英俊の墓も
中江兆民の墓も
青山墓地にあるそうである
*「兆民先生」(梅森直之校注、岩波文庫、2023)、pp.
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