2025年12月19日金曜日

中江兆民と村上英俊

 

 

 

史学科に入る現代の学生たちは

まず先生たちに一喝されて

坂本龍馬なんぞを格好いいと思ってちゃいかん!

あんなのは司馬遼太郎が捏造したインチキだ!

と叩き込まれるそうなのだが

幸徳秋水が恩師の中江兆民について描いた「兆民先生」を見ると

坂本龍馬の傑物ぶりも

案外嘘八百でもないように思える

 

当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、書生の留学する者多きのみならず、故坂本龍馬君等の組織する所の海援隊、亦運動の根拠を此地に置き、土佐藩士の来往極めて頻繁なりき、先生曽て坂本君の状を述べて日く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、 平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの言語もて、「中江のニイさん煙艸(たばこ)を買ふて来てオーせ」、などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき、 彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。    

奇なる哉、坂本龍馬君を崇拝したる当時の一少年は、他日実に第二の坂本君たらんとしたりき、坂本君が薩長二藩の連鎖となつて、幕府転覆の気運を促進し得たるが如く、自由改進の二党を打て一丸となし、以て藩閣を勦滅するは、見れ先生が畢生の事業とする所なりき。*

 

中江兆民は

坂本龍馬と同郷の高知出身で

17,8歳頃から洋学に志し

はじめは

萩原三圭や細川潤次郎に就いてオランダ語を学んだが

19歳で藩の留学生として長崎に行き

平井義十郎に就いてフランス語を修めた

この平井義十郎は

英語とオランダ語とドイツ語とフランス語を習得し

長崎の洋学講習所の済美館学頭となり

維新後は太政官大書記を経て

アメリカ公使を務めた

19歳にして凄い先生に就いたものだが

幕末の世間の狭さと知的沸騰が

いろいろな道の達人たちと若者とのこんな出会いも

案外と容易にしていた

 

それにしても

坂本龍馬が梅毒に罹っていて

額の髪が抜け上がっていたなどとは

公めいた文書ばかり見ていては

なかなか

わからないことだろう

 

長崎でフランス語を修めた兆民は

江戸に出ようと思ったが

乗っていく外国飛脚船の船賃がない

そこで同藩の先輩の岩崎弥太郎に頼むのだが

25両という船賃はなかなか高額で

一書生ごときにはなかなか出してはくれない

たまたま土佐藩の後藤象二郎が

藩命を受けて汽船購入のために長崎に来たので

漢詩を作って頼みに行くと

意気盛んな兆民青年をおもしろがって

後藤象二郎は船賃を出してくれた

 

江戸に着いた兆民が就いたのは

当時の日本における仏蘭西学の泰斗の村上英俊である

下野(栃木)に生まれ

江戸で蘭学を学んで信濃国で藩医となり

その後佐久間象山の勧めでフランス語を修め

日本の「仏学始祖」と呼ばれるようになった

 

村上英俊は

明治元年に深川猿江町の真田邸内で

「達理堂」という私塾を開き

フランス語を教えて生活の糧としていたという

ここで学んだ学生の数は429人に達し

なかには

複本武揚、中江兆民、浜尾新、加太邦憲、磯部四郎,栗塚省吾など

著名な人物もいた

フランス語を教える私塾としては先駆的だったが

明治5年から9年頃にかけては

外国語を教える学校・私塾は100校あまりに達し

明治6年の記録では

東京外国語学校だけでも

生徒数453人のうち

フランス語科生は75人となっている

 

ちなみに中江兆民は

学術的に他の学生に抜きん出ていた

ということもあるかもしれないが

偉がって態度が悪かったらしいこともあって

村上英俊から破門されている

深川という立地も悪かったかもしれない

「深川の娼楼、所謂仮宅に留連し」

と幸徳秋水は書いているが

この高知人は娼家遊びが過ぎたのだろう

 

フランス語塾として先駆的だった

村上英俊の「達理堂」は

明治10年には閉塾を余儀なくされてしまう

この頃になると

村上英俊のフランス語の発音では通じない

といった悪評が立つようになった

彼は多くの学術書を著し

『三語便覧』『五方通語』『仏蘭西詞林』などの辞書を編纂し

日本初の本格的な仏和辞典『仏語明要』も編纂したが

そこに記された発音表記からすると

フランス人に通じる発音ではなかったため

後から出てきたフランス語修得者たちに

自然と越されて行くことになったのだろう

とはいえ

化学にもよく通じ

ヨードの製法やメッキの製法

爆薬製造法なども研究し

学士院会員となり

レジオンドヌール勲章も受けた功績は

幕末から明治にかけて

多としなければならない

 

晩年病んで

落魄した村上英俊を

中江兆民はたびたび慰問し

師恩に報いたと

幸徳秋水は伝えている

 

村上英俊の墓も

中江兆民の墓も

青山墓地にあるそうである

 

 

 

 

*「兆民先生」(梅森直之校注、岩波文庫、2023)、pp.10-11.

 





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