海を見た
といっても
テレビのなかで
だけ
今夜じゅうに行ってこれる
海は
どこだろう
ひとの流れのなかで
そっと
時刻表を見上げる
中島みゆきの『時刻表』が
じぶんそのもの
として
ありありと
感じられた頃が
あった
『時刻表』は
1982年発売のアルバム『寒水魚』に
収録されている
中島みゆきのレコードを買ったことはなかったから
たぶん
ラジオなどで耳にしたのだろう
当時
テレビで中島みゆきは
まず
聞けなかったから
ハンス・カロッサ(Hans Carossa)に
『美しき惑いの年』(Das Jahr der schönen Täuschungen)
という作品があるが
わたしの1982年から1983年は
美しさの微塵もない
出口なしの惑いの年だった
サルトルの『出口なし』(Huis clos)のほうが
例えとしてふさわしいかもしれない
もっとも
『美しき惑いの年』というのは
手塚富雄が美しく訳した表現で
原題は『さまざまの美しい錯迷を重ねた一年』ほどの意味だから
「美しい」さえ除けば
そう遠くもないかもしれない
遠く歳月を経た
大人の目で見直しても
わたしは
家族のなかで
そう悪くもない息子であった
しかし
何年も前から1983年にかけて
わたしと家族のあいだに
何十年かけても埋めることのできない断層が
開きつつあった
父は酒乱であった
母はヒステリーであった
酔って暴れる父との乱闘が
1983年に
家族からの訣別を
わたしに強いることになった
1983年の7月の終わり近く
家族を
永遠に捨ててから
わたしの人生はふいに輝かしくなった
住まいは変わり
食べるものもすっかり変わり
日々使う言語もフランス語になって
考え方も習慣も変わり
どんどん変え続けようと努め
捨てた家族と縁続きのような日本のすべても
捨て去ろうと努めた
たぶん
時代も捨ててしまった
どこかで
中島みゆきを耳にすることがあっても
ほとんど共感することのない
長い年月が
始まっていった
今ごろになって
ふと
中島みゆきを耳にしたり
思い出したりするのも
悪いことではない
80年代初頭のじぶんの
内的身体のようなものの確認作業に
中島みゆきは
向いているからだ
さまざまな風景が
光景の細部が
それらのなかにいた人びとが
彼らの表情や
ちょっとした言葉が
蘇ってもくる
そうして
ちょっと驚きながら
今になっても
変わらないものがあると
微笑みそうに
なったりもする
こんな歌詞に
出会い直したりすると
誰が悪いのかを
言いあてて
どうすればいいかを
書きたてて
評論家やカウンセラーは
米を買う
迷える子羊は
彼らほど賢い者はいない
と思う
あとをついてさえ行けば
なんとかなる
と思う
見えることと
それができることは
別ものだよ
と
米を買う
時刻表 中島みゆき cover『寒水魚』今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう 1982 フル歌詞
https://www.youtube.com/watch?
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