2025年12月17日水曜日

今夜じゅうに行ってこれる海

 

 

 

 

海を見た

といっても 

テレビのなかで

だけ   

 

今夜じゅうに行ってこれる

海は

どこだろう   

 

ひとの流れのなかで 

そっと

時刻表を見上げる

 

 

中島みゆきの『時刻表』が

じぶんそのもの

として

ありありと

感じられた頃が

あった

 

『時刻表』は

1982年発売のアルバム『寒水魚』に

収録されている

 

中島みゆきのレコードを買ったことはなかったから

たぶん

ラジオなどで耳にしたのだろう

当時

テレビで中島みゆきは

まず

聞けなかったから

 

ハンス・カロッサ(Hans Carossa)に

『美しき惑いの年』(Das Jahr der schönen Täuschungen

という作品があるが

わたしの1982年から1983年は

美しさの微塵もない

出口なしの惑いの年だった

サルトルの『出口なし』(Huis clos)のほうが

例えとしてふさわしいかもしれない

もっとも

『美しき惑いの年』というのは

手塚富雄が美しく訳した表現で

原題は『さまざまの美しい錯迷を重ねた一年』ほどの意味だから

「美しい」さえ除けば

そう遠くもないかもしれない

 

遠く歳月を経た

大人の目で見直しても

わたしは

家族のなかで

そう悪くもない息子であった

しかし

何年も前から1983年にかけて

わたしと家族のあいだに

何十年かけても埋めることのできない断層が

開きつつあった

父は酒乱であった

母はヒステリーであった

酔って暴れる父との乱闘が

1983年に

家族からの訣別を

わたしに強いることになった

 

1983年の7月の終わり近く

家族を

永遠に捨ててから

わたしの人生はふいに輝かしくなった

住まいは変わり

食べるものもすっかり変わり

日々使う言語もフランス語になって

考え方も習慣も変わり

どんどん変え続けようと努め

捨てた家族と縁続きのような日本のすべても

捨て去ろうと努めた

たぶん

時代も捨ててしまった

 

どこかで

中島みゆきを耳にすることがあっても

ほとんど共感することのない

長い年月が

始まっていった

 

今ごろになって

ふと

中島みゆきを耳にしたり

思い出したりするのも

悪いことではない

80年代初頭のじぶんの

内的身体のようなものの確認作業に

中島みゆきは

向いているからだ

 

さまざまな風景が

光景の細部が

それらのなかにいた人びとが

彼らの表情や

ちょっとした言葉が

蘇ってもくる

 

そうして

ちょっと驚きながら

今になっても

変わらないものがあると

微笑みそうに

なったりもする

 

こんな歌詞に

出会い直したりすると

 

 

誰が悪いのかを

言いあてて 

どうすればいいかを

書きたてて   

評論家やカウンセラーは

米を買う   

 

迷える子羊は

彼らほど賢い者はいない

と思う  

 

あとをついてさえ行けば 

なんとかなる

と思う   

 

見えることと

それができることは 

別ものだよ

   と

米を買う

 

 

 

 

 

時刻表 中島みゆき cover『寒水魚』今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう 1982  フル歌詞

https://www.youtube.com/watch?v=ffGO6CMApck&list=RDffGO6CMApck&start_radio=1





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