アリストテレスの
ここ
『形而上学』のE巻の
ここ
これは
いかなる詩よりも美しく
至高の不意打ちを
食わせる
「もし自然によって組み立てられた現実存在よりほかに
現実存在(tis heteraousia)はないとするなら、
自然学が第一の学(prote episteme)となることだろう。
だが、不動の実在があるとするなら、
それこそが先行するもの(protera)であり、
哲学は、第一のもの(prote)という意味において
普遍的なものとなるだろう。
そしてこの哲学は、存在を存在として観想し、
存在とは何かを、
存在としての存在に属するものは何かを
観想することになるだろう」*
「だが、不動の実在があるとするなら、」……
「もし自然によって組み立てられた現実存在よりほかに
現実存在(tis heteraousia)はないとするなら、」……
ジョルジョ・アガンベンの
『最初の哲学、最後の哲学 形而上学と科学のあいだの西洋の知』
を読んでいて
ふいに
アリストテレスの
ここ
に
遭遇させられる
よき
夏
*もう少し広く引用しておくと、次のようになる。
「第一の学は、離在しかつ不動のものを対象とする。あらゆる原因はすべて[panta ta aitia] 永遠的なものであるが、とりわけ不動で離在するものがそうである。実際、神的なものを明らかに示すもの[tois phanerois]の原因は、不動にして離在している。それゆえ、三つの理論的な哲学[philosophiai theoretikail]があることになる。すなわち、数学、自然学、神学(theologike)である。事実、神的なものがどこかに存在するとすれば、この種の〔不動で離在し永遠の]自然のなかにおいてである。そして、もっとも尊い[timiotaten]もの[哲学]は、もっとも尊い類のものを対象とすべきである。それゆえ、理論的な諸学は他の諸学よりも望ましいものだが、神学は、他の理論的な諸学よりもいっそう望ましいものなのである。第一哲学は普遍的なもの(katholou)にかかわっているのか、それとも何かある特定の類や自然のものにかかわっているのかと問うてくる人がいるかもしれない。というのも、普遍的なものはあらゆるものに共通だが、ある特定の自然を対象とする幾何学や天文学のように、数学的な諸学科は同じものを対象とはしていないからである。もし自然によって組み立てられた現実存在よりほかに現実存在(tis heteraousia)はないとするなら、自然学が第一の学(prote episteme)となることだろう。だが、不動の実在があるとするなら、それこそが先行するもの(protera)であり、哲学は、第一のもの(prote)という意味において普遍的なものとなるだろう。そしてこの哲学は、存在を存在として観想し、存在とは何かを、存在としての存在に属するものは何かを観想することになるだろう」(1026a,7-33)
in ジョルジョ・アガンベン『最初の哲学、最後の哲学 形而上学と科学のあいだの西洋の知』(岡田温司訳、平凡社ライブラリー、2025)
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