定家卿ト云フ名人ノ手跡、以外ノ悪筆也
後世風評
1・1
新たに始めない。冬ざれの田地。水色の低い薄雲が地平線ちかくに澱んでいる。あざやかな他の風船の思い出が蘇るべき時だ。しかし、太陽しか脳裏に蘇らない。脳裏にいま見えるものは、「わたし」の現在に実在するのか。……煙草を買うのを忘れた。二十年前のギリシア旅行の時も、なんども煙草を買い忘れた。「わたし」のこともよく、真っ白に焼け付く午後の広場のカフェに置き忘れてきた。人間は最良の状態の時、「わたし」なしで太陽のもとを歩む。
草は裸足で踏むだけで、こころに水々しさを伝える。愛されて死んだひとの墓のかたわらの草を踏めば、一生渇きには苦しめられないという。どこの言い伝えだったか……
[初出] NOUVEAU NOUVEAU FRISSON (ヌーヴォー・ヌーヴォー・フリッソン) numéro 7 (1996年8月)
編集発行人 駿河昌樹
発行場所 東京都世田谷区代田1-1-5、ホース115ー205 〒155
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