日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
塚本邦雄
暴力のかくうつくしき世に棲みてひねもすうたふわが子守うた
齋藤史
隊組みて行くといふこと何よりも我は好まずとひそかに言はむ
柴生田稔
青空の井戸よわが汲む夕あかり行く方を思へただ思へとや
山中智恵子
青磁瓶のひびきと思ひそそぎゐる水充ちゆきて水の音となる
初井しづ枝
落ちてゐる鼓を雛に持たせては長きしづけさにゐる思ひせり
初井しづ枝
闇にまぎれて帰りゆくこのよるべなきぼろぼろをわれは詩人と呼ぶ
田井安曇
のび盛り生意気盛り花盛り 老い盛りとぞ言はせたきもの
築地正子
今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅
小中英之
なめらかに嘘がいへるということのたのしさも知りてもう若からず
蒔田さくら子
いつもそこで必ず狂ふレコードの瑕のごときを身に持てりけり
蒔田さくら子
ものおもふひとひらの湖をたたへたる蔵王は千年なにもせぬなり
川野里子
やいちくんと巡るぢごくのたのしさはこの世のたのしさに似てゐま
辰巳泰子
かへりこし家にあかつきのちやぶ台に火燄の香する沢庵を食む
斎藤茂吉
ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり
斎藤茂吉
はやくより雨戸をしめしこのゆふべひでし黄菊を食へば楽しも
斎藤茂吉
冬の鯉の内臓も皆わが胃にてこなされにけりありがたや
斎藤茂吉
二時間あまり机のまへにすわりしが渾沌として階をくだりぬ
斎藤茂吉
以後のことみな乱世にて侍ればと言ひつつつひに愉しき日暮れ
安永蕗子
現在の地球上に共存する社会、
そしてまた
人類が出現して以来いままで地球上につぎつぎ存在してきた社会は
何万、何十万という数にのぼる。
と
レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)は書いていた
いまでは思い出す人も少なくなった
『野性の思考』(La pensée sauvage, Paris, Plon, 1962)の中で
そして
こう続ける
それらの社会は
それぞれ
われわれの西欧の社会と同じく
誇るべき倫理的確言としてみずからの目に映るものを持ち
それにもとづいて
みずからの社会の中に
人間の生の持ちうる意味と尊厳がすべて凝縮されている
と宣明しているのである。
それらの社会にせよ
われわれの社会にせよ
歴史的・地理的にさまざまな数多の存在様式のうちの
どれかただひとつだけに人間のすべてが潜んでいる
などとしてしまうならば
よほどの自己中心主義と
単純素朴さとが
必要とされるということになろう。
これは
「フランス革命の神話」に特権的な地位を与えて
「人間学を築こう」とするサルトルの
『弁証法的理性批判』が
「自分の社会を他の社会から切り離している」点について
批判したものだが
つねに多数の多様な社会や文化によって
とりあえずの「自分」が取り巻かれ
それらに侵入され
侵蝕され
攻撃もされて地上に居続けるのを条件とされている人間にとって
人間観の基盤とするべき認識のひとつであろう
残念ながらこの箇所は
ただでさえ敷居の高く見える『野性の思考』の
最後のほうに現われる一節であるため
今では文化人類学の学徒や哲学の一部の学徒を除けば
本自体
なかなか手に取ろうともされず
ましてや
最後のほうまで読み進まれづらい読書体験となるがゆえに
多くの人の目にとまること極めて少なき箇所である
『野性の思考』からも
レヴィ=ストロースから逸れてしまうが
とにかく
本を読む時に大事なのは
最初から舐めるように律儀に読んでいくようなやり方ではなくて
おかずの数のやけに豊かな中華弁当を
あちこち気まぐれにつまんで口に運んでいくような
ランダム読みであろう
情報量や思考量や編集量の多いそれなりの書物は
なにせ
松花堂弁当のように単純な十字分けでは済まず
幕の内弁当どころでもないので
端っこからひとつひとつ順番に食べていくようでは
最後まで完食しおおせるエネルギーは必ずどこかで尽きてしまう
レヴィ=ストロースお得意のキーワードの「ブリコラージュ」を
ここでも使わせてもらえば
書物に盛り込まれた情報やら
著者の思考法やら
概念や思念をカットしたり貼り合わせたりする編集技術やら
句読点の打ちぐあいだの
段落の切り方だのまでもフリカケとして味わってみるような
読みの際の「ブリコラージュ」ぶりをフルに発揮して
ようするに
すぐに飽きてしまう幼児のように
本という料理とはつきあうべきなのだ
たとえば
ところで
ちなみに
日本語の真の詩的感興を味わうには
なんといっても
古典短歌をこそのんびり読むに尽きるが
勅撰集を勧めると
あんな長いもの読み終えられやしない
途中で飽きてくるし
と嘆き節が返ってくる
バカだなあ
まさか
最初から読んだんじゃないだろうね?
と聞くと
やっぱりそうだと言う
昔の勅撰和歌集というのは
とにかく
夏の部がやけに短いと決まっているのだから
どの集を読む時でも
夏から読み出せば
少なくとも夏部だけはすぐに読破できる
長い勅撰和歌集の夏の部だけでも読み終えれば
なんだかそれだけでも
けっこう馴染みになったような気になるものだ
春や秋は
中古や中世の歌人のお好みだから
ごっそり名歌が並んでいるが
ちょっと春を読んでみて
ああ
さくらさくらさくらと
飽きてきたらそこにとりあえず付箋をつけて離れ
秋だの恋の部だのに道草してみる
よくもまあ
何十も秋の歌を並べるよなあ
などと思ってきたら
またそのあたりに付箋をつけて離れ
今度は冬を覗いてみるか
などとやっているうち
一年も二年もすれば
ひとつの勅撰和歌集など
とりあえず目を通せる
古今和歌集なんてけっこう楽にいくし
新古今和歌集なんかは
どこか渋茶のようで飽き飽きするけれども
三四年もつきあえば終わる
現代から見れば
古色蒼然たるところもないでもない
斎藤茂吉の全歌集や
島木赤彦の主な歌集などに
ちょっと道草して飛んでみると
こりゃあさすがに新古今よりは新しいし
言葉づかいが自由自在だとわかるし
塚本邦雄まで来てみれば
こんなに楽しくっていいのか短歌
ってなぐあいに
もう
日本語の詩的感興のひとつの核心に
嵌まり込んでしまっている
そこまでくれば
山中智恵子も
安永蕗子も
葛原妙子も
佐藤佐太郎も
もうお馴染みさんだろう
もちろん
芭蕉だって
宗祇だって