2025年7月31日木曜日

それらの社会はそれぞれ

 

 

 

 

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

塚本邦雄

 

暴力のかくうつくしき世に棲みてひねもすうたふわが子守うた

齋藤史

 

隊組みて行くといふこと何よりも我は好まずとひそかに言はむ

柴生田稔

 

青空の井戸よわが汲む夕あかり行く方を思へただ思へとや

山中智恵子

 

青磁瓶のひびきと思ひそそぎゐる水充ちゆきて水の音となる

初井しづ枝

 

落ちてゐる鼓を雛に持たせては長きしづけさにゐる思ひせり

初井しづ枝

 

闇にまぎれて帰りゆくこのよるべなきぼろぼろをわれは詩人と呼ぶ

田井安曇

 

のび盛り生意気盛り花盛り 老い盛りとぞ言はせたきもの

築地正子

 

今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅

小中英之

 

なめらかに嘘がいへるということのたのしさも知りてもう若からず

蒔田さくら子

 

いつもそこで必ず狂ふレコードの瑕のごときを身に持てりけり

蒔田さくら子

 

ものおもふひとひらの湖をたたへたる蔵王は千年なにもせぬなり

川野里子

 

やいちくんと巡るぢごくのたのしさはこの世のたのしさに似てゐま

辰巳泰子

 

かへりこし家にあかつきのちやぶ台に火燄の香する沢庵を食む 

斎藤茂吉

 

ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり   

斎藤茂吉

 

はやくより雨戸をしめしこのゆふべひでし黄菊を食へば楽しも

斎藤茂吉

 

冬の鯉の内臓も皆わが胃にてこなされにけりありがたや

斎藤茂吉

 

二時間あまり机のまへにすわりしが渾沌として階をくだりぬ

斎藤茂吉

 

以後のことみな乱世にて侍ればと言ひつつつひに愉しき日暮れ

安永蕗子

 

 

 

 

 

現在の地球上に共存する社会、

そしてまた

人類が出現して以来いままで地球上につぎつぎ存在してきた社会は

何万、何十万という数にのぼる。

 

レヴィ=ストロースClaude Lévi-Straussは書いていた

 

いまでは思い出す人も少なくなった

『野性の思考』La pensée sauvage, Paris, Plon, 1962)の中で

 

そして

こう続ける

 

それらの社会は

それぞれ

われわれの西欧の社会と同じく

誇るべき倫理的確言としてみずからの目に映るものを持ち

それにもとづいて

みずからの社会の中に

人間の生の持ちうる意味と尊厳がすべて凝縮されている

と宣明しているのである。

それらの社会にせよ

われわれの社会にせよ

歴史的・地理的にさまざまな数多の存在様式のうちの

どれかただひとつだけに人間のすべてが潜んでいる

などとしてしまうならば

よほどの自己中心主義と

単純素朴さとが

必要とされるということになろう。

 

これは

「フランス革命の神話」に特権的な地位を与えて

「人間学を築こう」とするサルトルの

『弁証法的理性批判』が

「自分の社会を他の社会から切り離している」点について

批判したものだが

つねに多数の多様な社会や文化によって

とりあえずの「自分」が取り巻かれ

それらに侵入され

侵蝕され

攻撃もされて地上に居続けるのを条件とされている人間にとって

人間観の基盤とするべき認識のひとつであろう

 

残念ながらこの箇所は

ただでさえ敷居の高く見える『野性の思考』の

最後のほうに現われる一節であるため

今では文化人類学の学徒や哲学の一部の学徒を除けば

本自体

なかなか手に取ろうともされず

ましてや

最後のほうまで読み進まれづらい読書体験となるがゆえに

多くの人の目にとまること極めて少なき箇所である

 

『野性の思考』からも

レヴィ=ストロースから逸れてしまうが

とにかく

本を読む時に大事なのは

最初から舐めるように律儀に読んでいくようなやり方ではなくて

おかずの数のやけに豊かな中華弁当を

あちこち気まぐれにつまんで口に運んでいくような

ランダム読みであろう

情報量や思考量や編集量の多いそれなりの書物は

なにせ

松花堂弁当のように単純な十字分けでは済まず

幕の内弁当どころでもないので

端っこからひとつひとつ順番に食べていくようでは

最後まで完食しおおせるエネルギーは必ずどこかで尽きてしまう

レヴィ=ストロースお得意のキーワードの「ブリコラージュ」を

ここでも使わせてもらえば

書物に盛り込まれた情報やら

著者の思考法やら

概念や思念をカットしたり貼り合わせたりする編集技術やら

句読点の打ちぐあいだの

段落の切り方だのまでもフリカケとして味わってみるような

読みの際の「ブリコラージュ」ぶりをフルに発揮して

ようするに

すぐに飽きてしまう幼児のように

本という料理とはつきあうべきなのだ

 

たとえば

ところで

ちなみに

 

日本語の真の詩的感興を味わうには

なんといっても

古典短歌をこそのんびり読むに尽きるが

勅撰集を勧めると

あんな長いもの読み終えられやしない

途中で飽きてくるし

と嘆き節が返ってくる

 

バカだなあ

まさか

最初から読んだんじゃないだろうね?

と聞くと

やっぱりそうだと言う

 

昔の勅撰和歌集というのは

とにかく

夏の部がやけに短いと決まっているのだから

どの集を読む時でも

夏から読み出せば

少なくとも夏部だけはすぐに読破できる

長い勅撰和歌集の夏の部だけでも読み終えれば

なんだかそれだけでも

けっこう馴染みになったような気になるものだ

春や秋は

中古や中世の歌人のお好みだから

ごっそり名歌が並んでいるが

ちょっと春を読んでみて

ああ

さくらさくらさくらと

飽きてきたらそこにとりあえず付箋をつけて離れ

秋だの恋の部だのに道草してみる

よくもまあ

何十も秋の歌を並べるよなあ

などと思ってきたら

またそのあたりに付箋をつけて離れ

今度は冬を覗いてみるか

などとやっているうち

一年も二年もすれば

ひとつの勅撰和歌集など

とりあえず目を通せる

古今和歌集なんてけっこう楽にいくし

新古今和歌集なんかは

どこか渋茶のようで飽き飽きするけれども

三四年もつきあえば終わる

現代から見れば

古色蒼然たるところもないでもない

斎藤茂吉の全歌集や

島木赤彦の主な歌集などに

ちょっと道草して飛んでみると

こりゃあさすがに新古今よりは新しいし

言葉づかいが自由自在だとわかるし

塚本邦雄まで来てみれば

こんなに楽しくっていいのか短歌

ってなぐあいに

もう

日本語の詩的感興のひとつの核心に

嵌まり込んでしまっている

 

そこまでくれば

山中智恵子も

安永蕗子も

葛原妙子も

佐藤佐太郎も

もうお馴染みさんだろう

 

もちろん

芭蕉だって

宗祇だって

 




2025年7月30日水曜日

ちがいといえば、せいぜい


 

 

 

日本では『万華鏡』と訳されて

創元SF文庫に収められている

レイ・ブラッドベリRay Bradbury

自選名短編集The Vintage Bradbury(Vintage,1965)には

ギルバード・ハイエットによる序文があって

これが

なかなか

示唆に富んでいる

事実をみごとに語っている

とも言える

 

  小説を書くうえでもっとも達成しがたいことのひとつが、個性を出すことだ。毎年、何百という長編小説、何千という短編小説が生みだされる。だが、その大部分は似たり寄ったりで、ちがいといえば、せいぜい舞台となる場所や、プロットのもっともらしさや、性的でサディスティックなエピソードの残酷さの度合いくらい。文体、知性、人生の解釈がきわめて強烈で、またぬきん出ているために、感受性の豊かな読者ならたちどころにそれと認め、いったん認めたらけっして忘れないような作品を書く作家はめったにいない。この事実は、本人もきわめて独創的な作家であるトルーマン・カポーティが、つぎのような対照法を用いてみごとにいい表わしている。近ごろ評判のある長編小説をさして、彼はこういったとされるのだー「あんなのは書いてるんじゃない。タイプライターを叩いているだけだ」。 (中村融訳)

 

カポーティーが

どの小説を指して

「あんなのは書いてるんじゃない。

タイプライターを叩いているだけだ」

と言ったのかわからないが

今も昔も

市場に出まわる小説には

「その大部分は似たり寄ったりで、

ちがいといえば、

せいぜい舞台となる場所や、

プロットのもっともらしさや、

性的でサディスティックなエピソードの残酷さの度合いくらい」

しかないらしいのがわかって

ギルバード・ハイエットの指摘には

妙に納得がいってしまう

 

本来

人間の言語表現の最果てとして

なにをどう書いてもいいはずの小説というものは

ほかの小説に似ても似つかない

という性質が

絶対に欠けてはいけないはずなのに

いまだに

小説らしさというものにお利口さんに嵌まっているものばかりが

続々と書かれようとしてしまう惨状にある

 

村上春樹『羊をめぐる冒険』や

井上ひさし『吉里吉里人』などが書かれた頃の一時期

蓮實重彦は小説界を滅多斬りにした『小説から遠く離れて』で

「依頼された宝探し」という同一の物語構造が

村上春樹、井上ひさし、村上龍、丸谷才一などの

代表的作家たちの小説に共通してしまっており

「権力」や「双生児」などという共通項も持っていることを指摘して

異なった作品たちどうしが必死に似通おうとしている様を暴露して

日本の小説界の中で目立たせられている目玉作品の貧困を批判したものだが

ひと目につきやすい広告が推す小説は

昔も今も

あいもかわらず……

と思わされる

 

そうした状況と比べれば

たしかに

レイ・ブラッドベリの作品には瞠目すべきものがあるが

はたして

ギルバード・ハイエットが言うほどかどうか

 

『砂漠』で変貌する以前の

怠惰な読者をかなぐり捨てた

ロートレアモン経由の初期ル・クレジオの諸作や

フェルディナン・セリーヌや

クロード・シモンや

ファン・ルルフォの至上の小説『ペドロ・パラモ』などを思い出せば

レイ・ブラッドベリなんて

まだまだ

ロリポップの類かな?

ではある

 

 




我のみぞいそぎたたれぬ夏衣

 

 

 

 

風鈴のくろがねの重さ はるばるとわれに吹きくる海風がある

駿河昌樹

 

 

 

 

『日本の文学論』に収録された「余剰の演出」では

竹西寛子は

藤原俊成のことに俊恵法師を絡ませながら

ふたりの間の影響関係に触れている

 

12世紀後半に歌人たちの敬愛を集めながらも

東大寺の僧であった俊恵法師は

あまり歌の表舞台には執着しなかったらしく

歌学や歌の批評に関する著作は

散逸するままにしておいたものだった

 

いま

竹西寛子の問題意識にも

俊成や俊恵法師のことにも

とりたてて関わろうとは思わないのだが

ああ

そういえば

俊恵法師は源俊頼の子で

源俊頼といえば

有名な歌論書『俊頼髄脳』の著者であるばかりか

堀河院の歌壇の中心的存在であり

白河法皇の院宣を受けて

『金葉和歌集』を撰した人物であったではないか

と思い出し

勅撰和歌集のありかたを変貌させた『金葉和歌集』に

ふいと惹かれていく感じがした

 

たまたま

この令和7年の現世が夏であるので

ひさしぶりに『金葉和歌集』の夏部を開くと

源師賢の卯月の歌が冒頭に置かれている

 

我のみぞいそぎたたれぬ夏衣ひとへに春ををしむ身なれば

 

今年の7月も終わろうという時期の

この溽暑の頃の歌ではないが

わかりやすい爽やかな技巧の快い歌に

この頃怠けて

『金葉和歌集』の歌の明解さや

卒のない技巧の適切な使用ぶりの気持ちよさを

忘れてしまっていたことよ

と反省した

 

夏衣を

急いで裁つわけには

いかないのだ

ほかならぬ

この

わたしだけは

 

ひたすらに

春を

惜しんでいる身

なのだから

 

この

わたしだけは

 

表向きの意味は

すらりと

このように読み取れるのだが

もちろん

「たたれぬ」には

夏衣に繋がる「裁たれぬ」と

夏に繋がって「立夏」の意味を呼びよせる「立つ」とが

掛けられているし

「ひとへに」は

「ひたすらに」を表わしつつ

夏の衣の「単(ひとえ)」をも表わす

 

和歌では

めずらしくもない

当たり前の技巧のレベルだが

この程度に技巧の使用を留めておいて

夏部のはじめの歌を

わかりやすい

技巧的に爽やかなものとしておくところに

『金葉和歌集』の冴えがある

 

もちろん

夏部に溽暑の頃の歌はなく

古典和歌の夏ぎらいは歴然と呈されたままで

欠落だらけの季節感が

露呈されてしまってはいるのだが

まあ

そこには目をつぶっておくことにしよう

古典和歌とのおつき合い上の

お作法として

 

とはいえ

現世では時まさに溽暑であるからには

もうちょっと熱い歌を

思い出して

添えておきたい

 

他人のものをお借りしては申し訳ないので

たとえば歌集『百十八』*あたりの

みずからの旧作から

いくらか

熱気のあるものを

 

 

 

鮫釣りに出ていく男数人の男根の影著き平穏

四肢ほそき小鹿のごとき少年に触れにいく前のオレンジの味


缶詰ありてなまぬるき肉の汁吸る母ほどの歳の黒人娼婦


レモンの木並ぶ小径にタクシーのがんがんに熱き黄色が停まる


赤土に友尿(いばり)してじとじととわがいのちより確かなる音


あたらしき有刺鉄線その鈍き重き色あつき夏空の下


太陽観はげしく貌を変じゆく午後乳首まで流れくる汗


眼窩黒く濃き実体の影となる時そよかぜへ地球は動く


熱帯の乾きし土地の赤き庭にオレンジはつよく輝く裸体

 

気の流れ止みし夜明けの初夏の森を無言で引いていくなり

 

開くべき『エチカ』波濤の轟きのなか鮮明に赤き乳首に


腿の砂乾きゆく時の肉体の悪魔の歳は十六のまま


欲望の白さのヨット日の盛り過ぎし港へ戻り来る見ゆ


胡桃の実歯先でかたち崩すとき海いこうよとまたきみはいう

しっかりといまごろ足を閉じていて神妙な顔でボートの上で


さらさらと夕日は音をたてて降るうつくしいきみの腿から下を


ジェラートの種類をすべて知っているこの舌の裏の淡雪のさま


ぱっくりと話の絶えるときの指ひとつひとつを確かめられて


きみの足ていねいに洗う湯の音にめぐり来る夏の夜の大きさ


風鈴のひとたび響くそののちも夢のからだの乳房のあつさ

かなたまで草はらそよぐ褐色の背のかがやきを始まりとして


青空のすべて集めて輪郭の明晰すぎるかたきちちくび


いとおしさ極まるときを髪と指競いあいともに蛇となりゆく


はりさけるほど紺碧のあこがれの風ふくきみの小指のあたり

ピースライト喫わずに香り嗅ぐときの一瞬のきみをきょうは見たく


テレフォンヴォイスきらきら語る七色の稲妻のようなきみの軽さよ


オ・ソヴァージュ閉めずに朝の電話とるはやくも胸に頬を感じて


ミニカーに遊ぶこの手の経験のゆたかさ思う今夜ひとりで

牡丹咲く影の大きさまなざしをしばらく冷やすふたりある園


白魚の味はっきりと変わりたる夕餉ともにす愛ふかきあと


観念をはなれて白くやわらかきひかりを宿すこの肉といる

毒虫にさされし痕をながくながく口もて摩れど癒えがたきかも


腰の厚さこの肉づきを愛すればこころの深く癒されるらし


神であるわれいま深くふかく入るちからの果てをペガサス駆りて


千年の愉樂ふかくに震わせてふと浮上するごとききみのからだは

首を垂れるひとすじの汗の透明のさま追えば白き涼しき乳房

 

胸といい背といい遠き地の果ての芳しき指標きみが立つなり


動きへとせつになだれる時の滝きよめられゆくあかしの汗よ

おとこおんなでまさにあるとき概念はしずかなる湖の宿の青蚊帳


四大の元素のひとつ直接にきみ包むときの芳しきこと


燃えあがるという形容の通俗をはずれはずれて肌冷え始む


息あらくよわくふたたびあらくあらく熱帯雨林の雨雲として

風受ける腹下萌えに陽は燃えてつよき張り持つ愛のからだよ


雪よりも肉はっきりと選ぶ日の午後わか草のみどりの乳房


さらさらと透きとおる水にひかる舌いつでも春のわかき芽のごと


白水仙揺れるをわれのことばとしなおすべらかな花園の指

汗に火をつけて焼くべきかずかずの乱れを嫌う髪、服、ベッド

 

はつなつの汗すぐ引いて潮かぜに月の白さのきみのうなじは


さくら花いまついにこわれ落ちる下あかさ増しゆく首のめぐりは

純粋を動きははしる性神経回路ながれる電気となって


肌きつくつかんでぬるきまぼろしを熱くする熱く秘術つくして


すでに秘処なければわれは白昼の男神としてからだをひらく


わが香りむさぼる顔にうつくしき毛並み持つ雌の野獣を見たり

耳裏に鴫立つ音のはじければ十分にきょうの愛は遂くなり


小指なぜ噛み切らぬ歯か象徴のきみのからだの黒パンを噛む


まなざしの暗がりの奥に紫の蝶はやくはやく舞いてわが果つ


わが息はわれに遅れてふと軽き妖精の身できみを抱くかも

寄せる波去る波みだれみだれたるふいに静まるきみのからだは


血をじかに抱くときのわれを貫ける灼熱の槍を深く追うべし


野のみどり花のかがやき疑わぬふたふさの胸の豊かさを見よ


目つぶれば存在はつよしにおい立つこの濃密をからだとは呼ぶ

滝であれ水流の白きひとすじの愛のすがたであれわがおとめ


きみでありきみでなききみの髪濡れて夏雨はかたくつよく降るかな


さびしさをきみなき街の花園の水仙のしろき列に嗅ぎおり


髪つかむ手のやさしさとはげしさとなお深く深く走るからだと

はげしさのかたわらの林檎わき腹のみどり微かな愛のありかた


山を抱くとき声高き山鳥のはばたきつよききみの背の筋


たおやかな背水の陣のまなざしよ見るべし病みしわが少年時


玉となりたえぬ流れとなる汗を吸うきみの目の眼窩影濃し

教会の正午の影のふかみより生に惑いし天使きみ過ぐ


教会の影ふかみわれに真昼告ぐ急ぐべし急ぐべしと告ぐらし


水揺れる一瞬の世界河骨の黄ほどの笑みの輝かしさよ


ひたすらに花見るひととならんかな大海を背に立つきみといて

浴槽に湯の満ちるまでの空白を繁茂しやまぬ曖昧の森


おとし文虚無のかぜ止みし時おとす意味生成的人間の業


書籍多き部屋の畳にしろく射す正午近づく頃の陽光


太陽のこれだけの熱のなかにいて愛ははるかな幼児の記憶

夜更けてアップルパイを頬張ればわが人生の危機のさくさく


道に死にし蛙の皮にひかり失せ死もまた古びゆくものならむ


豁然と離陸を遂げし一行をめぐる余白の白なだれけり


さびしさの学(まね)びのはてを霧あさくこの山河は包まれにけり


また旅を断念し草の葉毟ればゆたかに汁は指濡らしけり


刃渡りの長きひかりの薄走り頬にあて今日の覚醒を成す

夕まぐれ危うしふいに世の中に忘れられしと耳澄ます部屋


汗の湧く午後食卓に推敲のペン握りひとり寂しき時を


戸棚には甘食しかなくそれを食い四時廻りけり曇り・風なし


なお若き若き地球の残暑かな雲状筋肉目を楽します

信濃屋食堂まだ味わわぬ美味ならむか陽に焼けし壁かろうじて緑


オレンジの長きアームを美と呼ばむ東京生活貫徹すべし


煤煙のよくよく見れば美しき首都高速下晩夏の逢瀬


伝え聞く事件のゆくえ干満の境の頃は浜に火を焚く

波動論尽きずついに眠らぬ夜わが行く末を考えず過ぐ


髭あさく剃る休日の角膜の鈍きかがやき大河のごとし


読み耽る宵より朝を支えし背裸身になれば肉うつくしく


焼海苔の香になお荒ぶ思い出のかの北国の女抱きたし

売人を待つ少年ら生き生きと語るくちびる色うつくしき


俄雨娼婦やさしくわが袖の濡れそぼつよと教えくれたる


諸腕に収まりきらぬ腰を持つロザリンの待つばかりの荒野


言葉なくただわれを抱く女ある国の煙草のなべて両切り

迷妄という確かなる言葉貫通す魚屋の声姦しからず


緑なす緑なす・・・詩語のたわむれに費やす時の多き街なり


雲はしる夕暮れちかき空に向く時計の塔の染み多き壁

 

この日頃逢わぬひとの目そに似たるムーンストーンの安き店過ぐ


唇の乾きしままにさまざまを語りぬことに愛のことなど


尽くすべきいのちあかるき山吹のなだれる崖にひかりいとおし

わが歌のついに尽きむとする夜を細く色なし二本の腕は


菜の花にひとの声さえ黄色くてミョ、イマワレハヘンシントゲル

 

 


 

*「駿河昌樹短歌集成」(suruga-tanka.blogspot.com)所収『歌集 百十八』(1995

https://suruga-tanka.blogspot.com/2022/05/blog-post.html