2025年11月10日月曜日

ベアーさん処分

 

 

  

 

今年の日本は熊年である

 

やけに熊が出る

 

マスコミや世間の噂には嘘が多く

いくらテレビが

熊!

熊!

熊!

と騒ぐからといって

おいそれと信じられるものではないが

それでも

ほかのソースを見ても

どうやら

熊は本当に多く出ているらしい

 

とすれば

今年の日本は

やはり

熊年だったのである

 

熊というのは

見ていると

大人の熊でも歩き方がぎこちなくて

どこかかわいい

こっけいだし

ユーモラスでもある

 

小津安二郎の映画『晩春』では

「佐竹熊太郎」という人とお見合いすることになった紀子に

杉村春子演じる叔母が

「熊太郎さん」

「熊さん」

「熊ちゃん」

「クーちゃん」

などと呼んだらいいかしら?

と冗談っぽく言う場面があるが

こんな話が出るのも

熊のどことないこっけいさや

ユーモラスさあっての

ことだろう

 

ところが

熊は怪力なものだから

ちょっとヒョイと殴られると

ニンゲンの顔など

ベロッと剥けてしまうらしい

すこし力を入れてビンタをされた日には

頭がすっ飛んでしまうという

爪も頑丈で長いから

ズブズブと身体の中に差し込まれてしまう

かわいいところのあるやつが

いちばん危ない

というのは

人間界と同じことで

油断禁物

ということになる

 

だいたい

近代世界の西側のどこの国でも

幼児には

熊のぬいぐるみを与えて抱かせたりするものだが

わたしも子どもの頃

いちばんの友は

40センチぐらいの熊のぬいぐるみで

ベアーさん

と呼んでいた

ろくに英語などできないのに

なぜだか

ときどき英語を差し挟む趣味のあった母が

ぬいぐるみに

ベアーさん

という名をつけたからだった

 

40センチぐらい

という大きさがわたしには絶妙で

ときどき出かけるデパートで

もっと大きなほかの熊のぬいぐるみを見ると

大きすぎて

なんだかふやけてみえて

ダサい

という気がした

 

ベアーさんとは

幼稚園を出る頃まで

いつもいっしょだった気がする

ずいぶん毛も抜けて

汚くなってしまったと大人たちには言われたが

物ごころついて以来

ずっといっしょだったから

ベアーさんが汚れたとはわたしは思えず

寝る時はいつも枕元に置き

家の中でも

なにかというとベアーさんを抱っこし続けていた

 

小学校に入る時だったか

入ってしばらくしてからだったか

ベアーさんはもう汚くなってしまったし

もう小学生なんだから

ベアーさんは捨てなさい

と母に命令された

 

毎日見つめあって生きてきたベアーさんを捨てる

というのは

わたしには考えられないことだったが

小学校に入るという大きな区切りにあたって

じぶんも新しく成長していかないといけない

という思いには

納得のいくものがあったので

なんとなくカラ元気のような気合いで

ベアーさん処分を受け入れてしまった

たぶん

戦争末期に特攻に志願させられた若者たちも

わたしと同じで

カラ元気を発揮するように

誘導されてしまったものだろう

 

なりたての小学生にとっては

たしかに

毎日毎日が新しいことの流入の連続で

そのあと

“ベアーさんロス”に陥る暇もなく

かなしい気分になる暇もなく

幼児から馴染んできたぬいぐるみの喪失は

禍根のようなものをまったく残さなかったが

成人後に

どんどん歳を重ねるにつれて

べつに捨てる必要もなかったのになあ…

と思うようになった

汚れたといっても

もともと茶色の人工毛で覆われた子熊なのだし

ところどころ

毛が禿げたとはいっても

それほど見栄えが悪くなるほどでもなかった

とにかく古いものは捨てなさい

いつまでも子どもではないのだから処分しなさい

という母の命令に

強がりをして乗ってしまっただけのことではないか?

そういう思いは

不思議なもので歳をとるほど

強くなっていった

 

そうして

さらに歳を重ねつつある今は

あの時に捨てないでおけば

今の時代の技術ならきれいに直してくれる店もあるだろうし

幼児の頃に特別な思いで持ち続けていた熊を

思い出の品として身近に飾っておくこともできただろうに

などと思うことしきりで

つくづくと

母の乱暴で勝手で粗雑な切断癖に

動かされるままになってしまったことが

悔やまれてくる

 

昨今のニュースで

また熊が出た!

また出た!

などというナレーションとともに

「処分」という名の射殺をされる時の音や

だらっと

どたっと

横たわった遺骸を見ると

野性の熊の危険さや凶暴さに目を瞑るというのではなくても

わたしはやはり

わたしのベアーさんをいつも思い出し

熊という言葉とベアーさんを繋いで考えてしまって

小学生になった時に

あのベアーさんに対して行ったことは

さすがに

「駆除」ではなかったものの

「処分」ではあったのではないか?

と思ってしまう

 

捨てたのだから

ちょっと事務的に言えば

どうしたって「処分」ではないか?

 

「処分」という

冷たい

最高に非人間的な言葉を

わたしは

親よりも

ニンゲンの友だちたちよりも

心の友としていちばん大事だったベアーさんに

結びつけてしまったのではないか?

たとえ

母から強いられた

成長の一段階の跳躍の儀式としてではあっても?

 

ベアーさんを失ってからの人生では

わたしは

わたしを愛し執着していると言う母の歪みとわがままさと

視野の狭さと

ヒステリー傾向と

強度の自己中心さと

虚栄心とに

苦しまされ続けた

 

生きのびるために

わたしは心の中で母をいくども殺し

今は

なんの感情も持たずに

平気でいっしょに世間話をしていられるほどに殺し尽くしたが

ひょっとして

小学生になった頃に

母がわたしにベアーさんを捨てるように追いやったのは

わたしの唯一の心の友を殺そうとするがためだったのではないか?

「駆除」しようとするためだったのではないか?

そうしてわたしを

母の思いどおりになる操り人形として

完全に作り上げようとしたのではないか?

今は

思ってしまう

 

母、憎し

親、憎し

 

そして

ベアーさん、恋し

 

母恋の風土たるセンチメンタル日本では

なんであれ

母なるものを持ち上げ

親を大事と歌い上げておればうまい汁が吸えるが

わたしはそうではない

残念ながら

わたしの母は『大草原の小さな家』のローラ・インガルスの母

キャサリンではなかったのである

 

そういえば

川野里子にこんな歌があった

 

あめんぼの足つんつんと蹴る光ふるさと捨てたかちちはは捨てたか






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