今年の日本は熊年である
やけに熊が出る
マスコミや世間の噂には嘘が多く
いくらテレビが
熊!
熊!
熊!
と騒ぐからといって
おいそれと信じられるものではないが
それでも
ほかのソースを見ても
どうやら
熊は本当に多く出ているらしい
とすれば
今年の日本は
やはり
熊年だったのである
熊というのは
見ていると
大人の熊でも歩き方がぎこちなくて
どこかかわいい
こっけいだし
ユーモラスでもある
小津安二郎の映画『晩春』では
「佐竹熊太郎」という人とお見合いすることになった紀子に
杉村春子演じる叔母が
「熊太郎さん」
「熊さん」
「熊ちゃん」
「クーちゃん」
などと呼んだらいいかしら?
と冗談っぽく言う場面があるが
こんな話が出るのも
熊のどことないこっけいさや
ユーモラスさあっての
ことだろう
ところが
熊は怪力なものだから
ちょっとヒョイと殴られると
ニンゲンの顔など
ベロッと剥けてしまうらしい
すこし力を入れてビンタをされた日には
頭がすっ飛んでしまうという
爪も頑丈で長いから
ズブズブと身体の中に差し込まれてしまう
かわいいところのあるやつが
いちばん危ない
というのは
人間界と同じことで
油断禁物
ということになる
だいたい
近代世界の西側のどこの国でも
幼児には
熊のぬいぐるみを与えて抱かせたりするものだが
わたしも子どもの頃
いちばんの友は
40センチぐらいの熊のぬいぐるみで
ベアーさん
と呼んでいた
ろくに英語などできないのに
なぜだか
ときどき英語を差し挟む趣味のあった母が
ぬいぐるみに
ベアーさん
という名をつけたからだった
40センチぐらい
という大きさがわたしには絶妙で
ときどき出かけるデパートで
もっと大きなほかの熊のぬいぐるみを見ると
大きすぎて
なんだかふやけてみえて
ダサい
という気がした
ベアーさんとは
幼稚園を出る頃まで
いつもいっしょだった気がする
ずいぶん毛も抜けて
汚くなってしまったと大人たちには言われたが
物ごころついて以来
ずっといっしょだったから
ベアーさんが汚れたとはわたしは思えず
寝る時はいつも枕元に置き
家の中でも
なにかというとベアーさんを抱っこし続けていた
小学校に入る時だったか
入ってしばらくしてからだったか
ベアーさんはもう汚くなってしまったし
もう小学生なんだから
ベアーさんは捨てなさい
と母に命令された
毎日見つめあって生きてきたベアーさんを捨てる
というのは
わたしには考えられないことだったが
小学校に入るという大きな区切りにあたって
じぶんも新しく成長していかないといけない
という思いには
納得のいくものがあったので
なんとなくカラ元気のような気合いで
ベアーさん処分を受け入れてしまった
たぶん
戦争末期に特攻に志願させられた若者たちも
わたしと同じで
カラ元気を発揮するように
誘導されてしまったものだろう
なりたての小学生にとっては
たしかに
毎日毎日が新しいことの流入の連続で
そのあと
“ベアーさんロス”に陥る暇もなく
かなしい気分になる暇もなく
幼児から馴染んできたぬいぐるみの喪失は
禍根のようなものをまったく残さなかったが
成人後に
どんどん歳を重ねるにつれて
べつに捨てる必要もなかったのになあ…
と思うようになった
汚れたといっても
もともと茶色の人工毛で覆われた子熊なのだし
ところどころ
毛が禿げたとはいっても
それほど見栄えが悪くなるほどでもなかった
とにかく古いものは捨てなさい
いつまでも子どもではないのだから処分しなさい
という母の命令に
強がりをして乗ってしまっただけのことではないか?
そういう思いは
不思議なもので歳をとるほど
強くなっていった
そうして
さらに歳を重ねつつある今は
あの時に捨てないでおけば
今の時代の技術ならきれいに直してくれる店もあるだろうし
幼児の頃に特別な思いで持ち続けていた熊を
思い出の品として身近に飾っておくこともできただろうに
などと思うことしきりで
つくづくと
母の乱暴で勝手で粗雑な切断癖に
動かされるままになってしまったことが
悔やまれてくる
昨今のニュースで
また熊が出た!
また出た!
などというナレーションとともに
「処分」という名の射殺をされる時の音や
だらっと
どたっと
横たわった遺骸を見ると
野性の熊の危険さや凶暴さに目を瞑るというのではなくても
わたしはやはり
わたしのベアーさんをいつも思い出し
熊という言葉とベアーさんを繋いで考えてしまって
小学生になった時に
あのベアーさんに対して行ったことは
さすがに
「駆除」ではなかったものの
「処分」ではあったのではないか?
と思ってしまう
捨てたのだから
ちょっと事務的に言えば
どうしたって「処分」ではないか?
「処分」という
冷たい
最高に非人間的な言葉を
わたしは
親よりも
ニンゲンの友だちたちよりも
心の友としていちばん大事だったベアーさんに
結びつけてしまったのではないか?
たとえ
母から強いられた
成長の一段階の跳躍の儀式としてではあっても?
ベアーさんを失ってからの人生では
わたしは
わたしを愛し執着していると言う母の歪みとわがままさと
視野の狭さと
ヒステリー傾向と
強度の自己中心さと
虚栄心とに
苦しまされ続けた
生きのびるために
わたしは心の中で母をいくども殺し
今は
なんの感情も持たずに
平気でいっしょに世間話をしていられるほどに殺し尽くしたが
ひょっとして
小学生になった頃に
母がわたしにベアーさんを捨てるように追いやったのは
わたしの唯一の心の友を殺そうとするがためだったのではないか?
「駆除」しようとするためだったのではないか?
そうしてわたしを
母の思いどおりになる操り人形として
完全に作り上げようとしたのではないか?
と
今は
思ってしまう
母、憎し
親、憎し
そして
ベアーさん、恋し
母恋の風土たるセンチメンタル日本では
なんであれ
母なるものを持ち上げ
親を大事と歌い上げておればうまい汁が吸えるが
わたしはそうではない
残念ながら
わたしの母は『大草原の小さな家』のローラ・インガルスの母
キャサリンではなかったのである
そういえば
川野里子にこんな歌があった
あめんぼの足つんつんと蹴る光ふるさと捨てたかちちはは捨てたか
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