商用のことや祖先のことや
忘れているというではないが、
都会の夏の夜の更――
死んだ火薬と深くして
眼に外燈の滲みいれば
ただもうラアラア唱ってゆくのだ。
中原中也 「都会の夏の夜」
ひさしぶりに新宿で遅くまで飲んで
帰ろうとすると
駅のホームの混みようは
まあ
なんということだ
驚くほどに
むかし
むかしの新宿駅の混みようと同じで
まあ
なんということだ
10年前の混みようも
20年前の混みようも
30年前の混みようも
40年前の混みようも
50年前の混みようも知っているわたしは
驚いてしまう
(なにを隠そうわたしは112歳なのだ!)
まあ
なんということだ
酔客たちは何十年経とうとも
駅のホームでは
同じようにボーッと電車を待ち
押し合いへし合いせずに
いかにもニッポンジンとして律儀に並び
いかにも平和に平穏に
いかにもただ新宿で飲んでいましたという属性だけの個体として
どのホームにも群れていて
夜遅くまで新宿で飲んでいくひとびとに
時代などない
時代の変化などなく
生き方の変化もなく
世相の変化などもなくて
ただ新宿で遅くまで飲んでいました
終電が近づく頃になんとか帰ろうとしています
酔った頭でスマホを見ながら電車が来るのを待っています
まあまあうまい酒が飲めていい夜でした
などという姿で
ずいぶん混みあいながら
電車の来るのを
待っている
これが幸せということではないか?
これこそ
幸せということだと
言っておけば
たいていのことは
解決してしまうのでは
ないか?
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