逝くものはかくのごときか。
昼夜をおかず。
孔子
なにかというと
価値の根拠としてすぐに
“コミュニケーション”
などと
持ち出してくる
しかし
そんなものが価値をもつように妄想できるのは
心身が壮健で
次の瞬間のエネルギーを創出できるまだ若さがあって
脳や意識の機能が
まだボケや認知症に冒されていない間であって
心身や意識に蔭が差してくれば
もうコミュニケーションも糞もなくなってしまう
帰属社会や帰属環境の
どうしようもない溶解や崩壊も
“コミュニケーション”
などという夢を
いつか
同じように溶解させてしまうだろう
そこそこ有名だった
オーデンの「1939年9月1日」という詩には
「我々は互いに愛しあわなければならない、
という詩句があったが
1971年だったか
オーデンは後になって
じぶんで否認して削除してしまう
インタビューアーに
どうして削除したのか?
と聞かれて
「どのみちわれわれは死んでしまうのだから」
と答えたという
オーデンの
「我々は互いに愛しあわなければならない、
という詩句は
戦後詩人たちがよくこんなものを持ち上げたと思うほど
空疎で軽薄なものに過ぎず
こんな詩句を削除してもどうでもいいのだけれども
それでも
「互いに愛しあ」うことの称揚や
その必要性の認識が
「どのみち」「死んでしまう」ことの前に
きれいに消滅していくさまは見事で
この削除行為にこそ
オーデンの誠実さも詩性も本当に発現したか?
と思ってしまう
詩人たちは“コミュニケーション”
夢のなかでも最たるものといえるような
「我々は互いに愛しあわなければならない、
などという歯の浮くような詩句を
やはり
最後には削除せざるを得なくなるほど
オーデンは人界の現実から学びに学んだのね
と思ってしまう
どんどんと心身が憔悴し
身を飾る意欲も衰え
髪を整えるとか
爪をちゃんと切るとか
歯を磨き口をすすぐとか
洗濯をちゃんとし
身辺の掃除を怠らず
食べたり飲んだりするものに注意し
口から洩す言葉の選択や結合のさせ方にも注意するばかりか
脳内で組み合わせる単語や概念連合にも
たえず注意し続けることができなくなった時に
“コミュニケーション”
とは
なにか?
そこで潰えるものなら
“コミュニケーション”
など
はじめからなんの価値もなかったものであり
ただの人界の児童のお遊戯に過ぎなかったことになる
しかも
“コミュニケーション”
は
それが然るべく機能したかどうか
確認する
フィードバック認知力が機能しないかぎり
なんの価値も持てない
(いわゆる「既読」されたかどうかへの心配や
「いいね」の数への神経質なこだわりや
閲覧数への病的な関心などは
“コミュニケーション”確認病の典型的な症例である)
だから
くだらない
くだらない
と言い続けてきたんだよ、わたしは!
“コミュニケーション”
なんて!
“コミュニケーション”
を維持する能力や
体力や
意識の最低限の冴えさえ失われた時に
なおも
価値を持つもの
それは
無
であり
無限の静寂
であり
どこまでも落ち込んでいく闇
であり
さらには
ただの黒
であり
光とかたちと色の消滅
である
しかし
それらは誰にも確実に来て
みな
それに飲み込まれて
身体も
こころも
名も
短い人生史も
なにもかも
輪郭も失い
区別も失って
ただの黒
に溶け込んでしまうのだから
生きている
という
幻想や妄想の中にいるうちから
それらを装う必要もない
生きている
という
幻想や妄想の中にいるうちは
意識という鏡を
その
キラキラを
せいぜい
瞬間的に
あわせ鏡のもうひとつの意識に映して
楽しんでおけばいい
大事なのは
瞬間的
ということだ
瞬間的
を
鋭く
どこまでもクリアに
極めて
時間と場所と認識と官能を全的に切断することだ
それが極度のレベルに達した時
死
無
空
が発生し
いわゆる「わたし」は消える
“コミュニケーション”
など
捨て去り
“コミュニケーション”
への
価値的幻想を
とりわけ
捨て去って
心身の衰亡と崩壊へと邁進せよ!
もっと具体的なイメージがほしいなら
火葬場の焼き釜の炎の中へと
邁進せよ!
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