2025年11月12日水曜日

藁半紙のような薄い紙のカード

 

  

 

専門的に勉強を深めたわけではないけれど

大学院の頃にちょっと深く関わった文化人類学や

日本文学や社会学との関連で関わらざるを得なかった民俗学は

過度に情報時代となってしまった現代を生きるのには

個人的にはけっこう役立っている

 

文化人類学から学んだ民族誌という概念の威力は強烈である

 

民族誌という概念においては

一民族や一国民のなかで書かれたものを

作者名や筆者名をすべて無視して総体的な民族記録として扱う

作家主義のようなものを認めず

個々の書き手の個性などは無視する

その民族や国民から発生した

ただの情報の束としてのみ文字記録を扱う

個人などはいわば単なる情報収集端末である

 

たとえば夏目漱石という作家の個性をとりあえず無視して

文字情報の束と見なす

だから「夏目漱石」という名のかわりに「A」という分類名を付け

情報束「A」として扱ってもよい

その情報束のなかに編み込まれた思考傾向や

修辞パターンや認識パターンや

さらには使用単語の星座や概念関係パターンなどを方法論的に消し

民族や国民の特性を浮き彫りにする情報集積へと濾過する

 

近代社会における文学が過度に尊重するようになった筆記者の個性

あっさりと無化するこうした研究態度は

わたしには思考上の清涼剤となった

 

現代の社会や人間界における心身個体に備わる個性をほとんど無視して

わたしは社会や人間界を見ることにしているが

これにまつわる基本所作は

文化人類学の民族誌概念からもらい受けたものといえる

 

民俗学からは

浅薄な判断による価値の有無にこだわらずに

とにかくあらゆるものを第一次情報として収集することを学んだ

収集の時点で速断的な価値づけをせず

その時点の意識にとって無意味と思えるものも

文化的・表象的なゴミも汚物も腐敗物も骨も埃も排泄物も

とにかく第一次情報としてこちらの意識内に収集しておくのだ

 

当面の効率一辺倒の浅いビジネス思考のようなものに侵されると

なんらかの対象に触れる瞬間に価値の有無を速断する

のが

賢明であるかのように

盲信させられがちになるが

現代社会におけるたいていの「価値」は

大小や種別を問わず

なにかの短期的生産のために便利かどうかを意味するので

この基準に従ってばかり動くと

既知の

狭い視野のなかでの生産しか行わない精神が培われていく

 

帰属社会のなかの歯車として生存時間を用いるだけのつもりならば

それでもかまわないだろうし

それはそれでひとつの諦念であり悟りともいえるだろうが

たまたま今じぶんが属しているローマ帝国など

分解崩壊していってもよかろう

といった視野に立つ場合には

手近な偏狭な価値観にばかり従わないほうがいい

ということにもなる

どんどんゲルマン人を国内に引き込んで

ローマ帝国の分解を促そうと考え

そうした帝国分解=生産行為のためになるような情報や素材を集めるには

当面の社会状況内では

文化的・表象的にゴミや汚物や腐敗物や骨や埃や排泄物とみえる

あれこれのものも

レアアースとして捉え直す必要が出てくる

 

民俗学といえば

やはり柳田國男が思い出されるが

神奈川近代文学館で

特別展「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ

―『遠野物語』から『海上の道』まで」(2015)

を見た時

柳田國男のカード手法に感心させられた

 

大きさは正確には覚えていないが

15センチ×10センチぐらいだろうか

もっと小さかっただろうか

いまでも勉強や研究に使われるようなカードを

柳田も使っていたが

厚紙ではなくて

なんと藁半紙のような薄い紙だった

この薄紙カードをフィールドワークに多量に持って行き

そこにメモしていく

 

それだけなら

もちろん

誰でも似たようなことをやるわけだが

面白いのは彼のカードのこの薄さの価値だった

藁半紙ぐらいしか厚さがないから

メモした紙の上のほうに

針金で容易に穴を開けられる

テーマごとに分類して

針金でプチッと穴を開けて束ねていけば

すぐにカードの束ができあがる

薄い紙を使うのはそのためなのだった

 

この特別展では

こうしたカードにあわせ

カード保管専用の木箱も展示されていて

実際の便利グッズがこのように見られるというのは

柳田國男の書籍の各ページに触れるのとはべつに

ずいぶん貴重なことと思われた

 

 




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