専門的に勉強を深めたわけではないけれど
大学院の頃にちょっと深く関わった文化人類学や
日本文学や社会学との関連で関わらざるを得なかった民俗学は
過度に情報時代となってしまった現代を生きるのには
個人的にはけっこう役立っている
文化人類学から学んだ民族誌という概念の威力は強烈である
民族誌という概念においては
一民族や一国民のなかで書かれたものを
作者名や筆者名をすべて無視して総体的な民族記録として扱う
作家主義のようなものを認めず
個々の書き手の個性などは無視する
その民族や国民から発生した
ただの情報の束としてのみ文字記録を扱う
個人などはいわば単なる情報収集端末である
たとえば夏目漱石という作家の個性をとりあえず無視して
文字情報の束と見なす
だから「夏目漱石」という名のかわりに「A」という分類名を付け
情報束「A」として扱ってもよい
その情報束のなかに編み込まれた思考傾向や
修辞パターンや認識パターンや
さらには使用単語の星座や概念関係パターンなどを方法論的に消し
民族や国民の特性を浮き彫りにする情報集積へと濾過する
近代社会における文学が過度に尊重するようになった筆記者の個性
あっさりと無化するこうした研究態度は
わたしには思考上の清涼剤となった
現代の社会や人間界における心身個体に備わる個性をほとんど無視
わたしは社会や人間界を見ることにしているが
これにまつわる基本所作は
文化人類学の民族誌概念からもらい受けたものといえる
民俗学からは
浅薄な判断による価値の有無にこだわらずに
とにかくあらゆるものを第一次情報として収集することを学んだ
収集の時点で速断的な価値づけをせず
その時点の意識にとって無意味と思えるものも
文化的・表象的なゴミも汚物も腐敗物も骨も埃も排泄物も
とにかく第一次情報としてこちらの意識内に収集しておくのだ
当面の効率一辺倒の浅いビジネス思考のようなものに侵されると
なんらかの対象に触れる瞬間に価値の有無を速断する
のが
賢明であるかのように
盲信させられがちになるが
現代社会におけるたいていの「価値」は
大小や種別を問わず
なにかの短期的生産のために便利かどうかを意味するので
この基準に従ってばかり動くと
既知の
狭い視野のなかでの生産しか行わない精神が培われていく
帰属社会のなかの歯車として生存時間を用いるだけのつもりならば
それでもかまわないだろうし
それはそれでひとつの諦念であり悟りともいえるだろうが
たまたま今じぶんが属しているローマ帝国など
分解崩壊していって
といった視野に立つ場合には
手近な偏狭な価値観にばかり従わないほうがいい
ということにもなる
どんどんゲルマン人を国内に引き込んで
ローマ帝国の分解を促そうと考え
そうした帝国分解=生産行為のためになるような情報や素材を
当面の社会状況内では
文化的・表象的にゴミや汚物や腐敗物や骨や埃や排泄物とみえる
あれこれのものも
レアアースとして捉え直す必要が出てくる
民俗学といえば
やはり柳田國男が思い出されるが
神奈川近代文学館で
特別展「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ
―『遠野物語』から『海上の道』まで」(2015)
を見た時
柳田國男のカード手法に感心させられた
大きさは正確には覚えていないが
15センチ×10センチぐらいだろうか
もっと小さかっただろうか
いまでも勉強や研究に使われるようなカードを
柳田も使っていたが
厚紙ではなくて
なんと藁半紙のような薄い紙だった
この薄紙カードをフィールドワークに多量に持って行き
そこにメモしていく
それだけなら
もちろん
誰でも似たようなことをやるわけだが
面白いのは彼のカードのこの薄さの価値だった
藁半紙ぐらいしか厚さがないから
メモした紙の上のほうに
針金で容易に穴を開けられる
テーマごとに分類して
針金でプチッと穴を開けて束ねていけば
すぐにカードの束ができあがる
薄い紙を使うのはそのためなのだった
この特別展では
こうしたカードにあわせ
カード保管専用の木箱も展示されていて
実際の便利グッズがこのように見られるというのは
柳田國男の書籍の各ページに触れるのとはべつに
ずいぶん貴重なことと思われた
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