2025年11月19日水曜日

あのころの未来にぼくらは

 

 

 

ここでは喜劇ばかり流行る

夏目漱石 『虞美人草』

 

 

 

 

ぶつかりおじさん

というのは

だいぶ前から問題視されていた

 

駅の雑踏のなかで

わざと人にぶつかってくる中高年の男性たちで

なんらかの鬱憤を抱えているのか

社会への義憤を抱えているつもりなのか

通行人にぶつかって歩いて行く

 

ぶつかられたほうは

時には転びそうになったり

腕や背や胸にかるく打ち身を負ったりするかもしれないが

被害の数は少ないし

危険すぎるほどでもないので

問題視はされつつも

これといって対策が講じられてもいない

 

ちょっと昔なら

ぶつかられた側が許しておかなかっただろう

こういう無礼な人間に対しては

追いかけていって文句を言ったり

小突いたり

蹴りを入れたり

足をひっかけて倒したりというのは

昭和の頃なら当たり前だった

 

日本における他人への配慮や

礼儀の発達というのは

ちょっとの無礼が個人と個人の間で暴力の応酬になる

ということを前提として成立していた

きわめて政治的な方策だった

少年時代からまわりの日本社会を見ながら

わたしはこの国の対人対応のしかたを

そのように理解していった

 

ぶつかりおじさん

なるものが現われうるのは

無礼さや

危険な行為をしかけてくる者に対して

暴力を正当に行使しない人間たちの大量発生に理由があるだろう

口頭での抗議や

警察権力の呼び込みも含めて

わたしは暴力と呼ぶ

意味もなく平手打ちを浴びせられそうな時に

こちらの手や腕で払うのも暴力である

 

戦後に大量発生した絶対的平和主義者たちは

イエス・キリストなみに

殴られたら殴られ続けよ

べつの頬まで差し出せ

といったような教えを垂れながら

のうのうと利益団体の寄生虫となって

小金大金を稼いでいたものだが

彼らが身体上の絶対非暴力を説けたのも

小金大金袖の下なる金銭的暴力を手中に出来ていたからであり

あるいはまた

内心のヒロイズムという感傷的精神的暴力に

たっぷりと浸っていられたからである

 

この頃の東京で

わたしがちょっと危機の香りを嗅ぐような気になるのは

ぶつかりおじさんのそれのような

意識的なぶつかり行為でない

無意識的な

不注意的な

というか

そもそもぶつかるということの無礼や危険さを認識していないかのような

ひたすら避けない人たちや

なぜだかスーッとぶつかってくる人たちが

けっこう多くなってきている点だ

 

道幅が限られている通路や舗道で

とにかく避けない

たがいにすれ違うにはちょっと身体を横にして

ぶつからないように進まねばならないはずなのに

じぶんのほうは少しもわきにも寄らずに

場所を多く占めながら進み続けてくる

しかたなしに

こちらは身体を横にしてすれ違っていくことになるが

それが当たり前ででもあるかのように

顔色ひとつ変えずに進んで来て

通り過ぎていく

 

これがヤクザ者や反グレだとかなら

まだわかるが

世間のどこにでもいるようなごく普通の人間たちで

顔も風体も悪人じみてはいない

ごく普通の日本人が

ごく普通に非礼の極みのような歩き方を

平気でしている

 

避けないだけならまだしも

道幅に余裕があるというのに

なぜだか

こちらのほうへ寄ってきてぶつかりそうになる人もいる

腕や肘のあたりが実際にかすったりぶつかったりすることもあるが

こういう人のむこう脇はずいぶん空いていたりしている

腕や肘のあたりがぶつかると

わたしが避けなかったのが悪いとでもいうように

憮然とした顔で睨んできたりすることもある

 

どの人たちも

本当に世間のどこにでもいるようなごく普通の人間たちで

ヤクザでも不良でもないところが

じつに

非常に恐い

 

これが

今のニッポンジンの実相か……

と思わされる

 

なにかというと

政治が悪い

何が悪い

かにが悪い

と言い立てられるが

ひょっとしたら

世間のどこにでもいるようなごく普通のニッポンジンたちが

いちばん悪いのではないか……

と思ってしまう

 

悪い

というのは

端的にまとめて凝縮していうと

じぶんの周囲に然るべき注意を払っていないことや

問題を引き起こしそうなものを瞬時瞬時に避けようとしないことや

必要な配慮はすべて

他人が払ってくれるものだと思い込んでいたり

そうであるべきだと

どうやら信じ混んでいたりすることだろう

 

あきらかに

社会生活上認知症とでもいうべき症状で

東京のような過密かつスピード社会にあっては

不適合者以外の何者でもないが

問題はこんな人たちがこの頃大量に出現しているかのようであることで

社会の未来はひとりひとりの人間の質にこそかかっている以上

暗いぞ

暗澹たるものであるぞよ

ニッポンの未来は!

と思われてならないのである

 

ニッポンの未来は Wow Wow Wow Wow

世界がうらやむ Yeah Yeah Yeah Yeah

 

などと

1999年のはやり歌「LOVEマシーン」にはあったが

https://www.youtube.com/watch?v=DPyOltG3SXU

https://www.youtube.com/watch?v=PG77WmUz1W4

こう歌って

はしゃいでいた果てに

今の

2025年はある

 

あのころの未来に

ぼくらは

立っているのかなぁ

 

ズバリ

LOVEマシーン」より1年先に歌っていた

予言的な

1998年の

SMAP+スガシカオの「夜空ノムコウ」も

あった

https://www.youtube.com/watch?v=iY_WqX5VaL4

https://www.youtube.com/watch?v=urc5J-iAX-s

 

 

あのころの未来に

ぼくらは

立っているのかなぁ

 

すべてが 

思うほどうまくはいかない

みたいだ

 

このまま

どこまでも 

日々は

続いていくのかなぁ

 

雲のない

星空が 

マドのむこうに

続いている

 

あれから

ぼくらは 

なにかを

信じてこれたかなぁ……

 

聴き直してみると

中居クンも

ジャニーさんも

裏にドロドロと絡みついているはずの

この歌の歌詞が

痛烈

壮絶に

哀しくわびしくペラペラに軽薄に

聞こえ直してくる

 

ああ

これが平成時代

だったね

 

だったよね

 

ニッポンの未来

だったよね

 

それにしても

落胆と

後悔と

不信と

ふがいなさ

ばかり

くりかえし

くりかえし

うち寄せ続ける

秋津島

 

ちょっとつづめて

国歌にしたらいいんじゃないか

思えるような

この歌詞

 

 

あのころの未来に

ぼくらは

立っているのかなぁ

 

すべてが 

思うほどうまくはいかない

みたいだ

 

このまま

どこまでも 

日々は

続いていくのかなぁ

 

あれから

ぼくらは 

なにかを

信じてこれたかなぁ……

 

 




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