「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
広島の原爆死没者慰霊碑の碑文で
有名なものだが
昔から
原爆の被害者である日本こそが「過ち」を犯した
かのような
文言となっていて
改めるべきではないか
という
批判は多かった
批判は
昨今
さらに多くなっている
*
碑文は
原爆によって殺された死霊たちに
向けられている
「安らかに眠って下さい」
のほうはともかく
問題となるのは
「過ちは 繰返しませぬから」と語る主語は誰か?
であろう
原爆による殺戮者は
日本語をこのように用いる日本人ではない
原爆を投下したアメリカ兵たちであり
投下を決定したアメリカ軍と政府である
細かいことを言えば
アメリカ人であっても
原爆投下に関わらなかったアメリカ人は
原爆による殺戮の主語からは
除外される
*
原爆を投下された日本に帰属する
日本人が
日本語を用いて
広島の原爆死没者慰霊碑の碑文を語るのならば
「過ちは 繰返させませんから」
とするべきだろう
「過ち」を
原爆投下を招来させたような
一連の戦争過程に拡大解釈するならば
日本人が
日本語を用いて
「過ちは 繰返しませぬから」
と語ってもよい
しかし
その場合
大敗に終わるような戦争遂行を「過ち」と見なして
「負けるような戦争は繰返しませぬから」
すなわち
「次の戦争では必ず勝利しますから」
という意味も
含まれてくることになる
*
「負けるような戦争は繰返しませぬから」
すなわち
「次の戦争では必ず勝利しますから」
汚辱に満ち
冷酷で残虐な人界の現実に即しての
この方向性での展開は
べつの機会に
落ち着いて行うことにするとして
ここでは少し
感傷的な
いくらかは形而上学的な解釈に
埋没してみたい
*
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
という碑文は
わたし個人としては
けっこう好きで
言語表現として名作だと思う
「過ちは 繰返しませぬから」
における
主語の曖昧さ
どころか
主語のなさ
が
いい
あるいは
それが誰の「過ち」なのか
明示されぬ
所有形容詞の決定的欠落の発生も
小気味よい
「過ち」は
もはや
誰のものとも呼ばれ得ない
絶対的「過ち」として現出するのであり
この短い碑文のなかで
ここまでの言語凝縮に至り得たことに
日本語の脅威と達成を
わたしは見る
さらには
日本語の読み方として
さほどムリもない可能性のひとつに従えば
「過ちは 繰返しませぬから」
における主語が
じつは
「過ち」である
とも解せるところが
すばらしい
この場合
「繰返」すという行為を「過ち」がしない
と述べていることになるわけで
ギョーム・ド・ロリスやジャン・ド・マンが書いた
『薔薇物語』(Le Roman de la Rose)が思い出される
擬人化されたさまざまな概念が『薔薇物語』には登場してきて
人心を照らす批評区間となるような独特のフィクション空間が発生
「過ち」をあえて主語と捉えて読む場合
原子爆弾の炸裂を経験した広島の人々の精神や心が
「過ち」をも擬人化させる他ないような変容を経験させられたのか
と考えるほうへ導かれていく
*
この碑文を作ったのは
広島大学の教授だった雑賀忠義(1895-1961)だという
京都帝国大学で英文学を学び
立命館大学講師などを経て
原爆投下時は広島高等師範学校教授であり
自身も被爆した
大学院では英米現代詩を講じ
禅や書画や篆刻も行う風流人であった
万葉集の英訳も試みていた
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
という言葉は
彼自身の英訳によれば
Let all the souls here rest in peace;
For we shall not repeat the evil.
となっていて
「過ちは 繰返しませぬから」の主語はWeであり
明瞭に「私たち」だった
しかし
この「私たち」は
日本人や広島市民に限定されたものではなく
「私たち全世界の人々」とされており
「人類のなしえなかった仕事をしようと光明を見出す」ものと
解説されていた
「靜坐心自寛」という文章に
さらに
雑賀忠義自身の
このような考えが載せられてあった
二十一萬の犠牲者に極楽へ行って貰うことが念願です。
当時の広島市長の要請に応えるかたちで
昭和二十七年七月二十一日に碑文は作られたらしい
偶然のようだが
二十一日は
真言宗で引導を渡す日であるそうで
碑文を書くのに用いた字数も
ちょうど
二十一文字だった
一夜づけで
即興のように作られた碑文だが
雑賀忠義は
「一晩であつたものが出ただけ、
ないものを出せばかりものだ。
即座に出ねば永久に出ない」
とも言っていた
*
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
という碑文によって
犠牲者21万人に対し
雑賀忠義は
大規模に引導を渡そうとした
ということになろう
「人間に完全な幸福なし。
あつても逃げる。
しかし幸福は正坐すればはいります」
と言っていた
雑賀忠義ならではの
一世一代の大仕事であり
教語であり
詩作であった
と見るべきであろう
雑賀忠義は
特に
「エツエイズ」を好んだ
というのだが
これが
ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats)のことなのか
どうか
確言はできない
0 件のコメント:
コメントを投稿