ニーチェの『ツァラトゥストラ』を読み直せ!
と勧めても
だれもが途中で放り出してしまう
第1部の100ページにも
いかないあたりで
だから
軽く
気まぐれに
あちこちに飛びながら
読む
というより
かする
滑る
触れるか触れないか
という
文字との戯れが
必要なのだ
だいたい
ニーチェもどうかしている
第1部では
いい気になり過ぎて
形式性のパロディーが過多になっている
なんでも過多になると
すぐに飽きさせるものに堕す
ダジャレ大全とか
落語全集の
あのうんざり感を
作者はいつも思い出しておかないといけない
それに
ニーチェの編集感覚も
ちょっと
ダサい
いきなり
第2部へ飛べ
そうすると
『ツァラトゥストラ』は詩集だったのが
さっと理解できる
ニーチェはまずは人間批判詩人だった
散文は哲学書ではなく
人間批判詩人のおしゃべりだった
そうわかって読み直すと
彼がどれだけカフカだったかもわかる
秀逸な人間批判となっている次の章など
どうだ?
人間たちのところで暮らすようになってから、俺は思った。『この人には目がひとつありません。あの人には、耳がひとつありません。そしてまたあの人には、脚が1本ありません。それからまた、舌や身や頭をなくした人もいる』とわかっても、そんなことは取るに足りないことなのだ。 俺はこれまで、もっとひどい人間を見てきた。いちいち話したくないほど嫌な人間も見てきた。しかし、なかには、どうしても話しておきたい人間もいた。あらゆる部分が欠けているのに、ひとつの部分だけ巨大な人間だ。――大きな目でしかない人間、大きな口でしかない人間、大きな腹でしかない人間、どこかひとつの部分でしかない人間。――そういう人間を俺は、逆不具と呼んでいるんだが。
俺が孤独な暮らしから出てきて、はじめてこの橋を渡ったとき、この目を疑った。目を凝らして見た。じっと見た。そしてようやく言った。『こいつは耳だ!人間の大きさほどもある耳だ!」。目を凝らして、もっとよく見た。すると、なんと、耳のしたで動いているものがある。あわれなほど小さくて、貧相で、きゃしゃだ。本当に、巨大な耳が小さな細い柄に乗っていた。その柄が、なんと人間だったのだ!眼鏡をかけて見ると、そのほかに、嫉妬深そうな小さな顔がついていることもわかった。 また、むくんだ小さな魂が柄にぶらさがっていた。民衆から聞いたところ、大きな耳は人間であるというだけでなく、大きな人間、つまり天才であるらしい。だが、民衆が大きな人間のことを話題にするとき、俺は民衆の言葉を一度も信じたことがない。――その人間が逆不具なんだと思いつづけた。すべての部分が小さすぎて、ひとつの部分だけが大きすぎる人間なんだと」
ツァラトゥストラは、そのせむしと、そのせむしが代弁している連中にむかって、そう言ってから、むっとした顔を弟子たちのほうにむけて、こう言った。
「じっさい、友よ、俺は人間たちのあいだを歩いているのだが、まるで人間たちの手や足や断片のあいだを歩いているような気がする! 人間のからだがバラバラに散らばっているのを見るのは、戦場を見るみたいで恐ろしいことだ。
そして俺の目は現在から過去へ逃げるのだが、そこで見えるのもいつも同じもの。手や足や、からだの断片や、ぞっとするような偶然ばかりでーー人間の姿はない! この地上の現在と過去はーーああ!友よーー俺には、もっとも耐えられないものだ。もしも俺が、これからどうなるかを予見する見者でないなら、生きていけないだろう。*
*『ツァラトゥストラ(上)』 (丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、2010)
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