2025年8月30日土曜日

ものを食べるにあたっての「贅沢」

 

 

 

食い道楽の吉田健一が

ものを食べるにあたっての「贅沢」について

当然のことのように洩らしているのは

「大阪のかやく飯」についての文のなかでである

 

東京生まれで

総理大臣になった吉田茂を父に持つ

ケンブリッジに学んだこの作家は

こと食においては

東京が「どこまで落ちて行くのか解らない」と

嘆くことしきりである

 

まずは冒頭を

 

これは東京では混ぜ御飯と言っているもので、ただ違うのは東京の混ぜ御飯よりも大阪のかやく飯の方が遥かに旨い上に大阪ではこれを売っている店があってそこで食べられることである。又その混ぜ御飯なるものが今の東京では普通の家庭でもあり付けないものになっているから差し当り現在の東京でこのかやく飯に相当するものは支那風の炒飯という所だろうか。全くこの東京の町というのはどこまで落ちて行くのか解らない。

 

この文が載っている『私の食物誌』の内容は

1971年から1972年に書かれたものだから

彼が現在の東京の食事事情に触れたら

底なしに落ちていくばかりのブラックホール東京

とでもいうかもしれない

 

それで混ぜ御飯ももう忘れられているならば大阪のかやく御飯の説明もしなければならなくて、これは油揚げとか牛蒡とかを飯に混ぜるのではなくて初めから米と一緒に炊き上げたものである。その作り方からして恐らくはこれももとは家庭料理だったのに違いないが、それを主に売っている東京風に言えば食堂が大阪には方々にある。あの味を思い出すと東京の混ぜ御飯と比べたのが悪かった気がする再び今日の東京風に言えば家庭的とか庶民的とかいう愚にも付かない形容詞を並べることになりそうであっても、これはそのようなことと凡そ縁がない本ものの食べものの味がする。その作り方、であるよりも材料を説明しただけでそれは解る筈で油揚げその他を米と炊けばそうして混ぜたものの味が飯に染み込む訳であり、油揚げと人参と牛蒡と、その他に椎茸、蓮、豆などの味が米の味と一緒になったものがどんなか、これは説明の域を越えて大阪で食べて見る他ない。

大概そういう店ではこのかやく飯の他に粕汁とそれから何か煮締めのようなものを売っていて、この粕汁もかやく飯とこれとどっちが食べたくて店に入ったのか解らない上々のものである。序でにその煮締めも関西風の淡味のものであることを付け加えて置くべきだろうか。ここで粕汁の説明まですることはなさそうである。或はそう思いたくてしないで置く。このかやく飯と粕汁と煮締めで東京の天ぷらそば位の値段で食事をするという贅沢も今の東京では考えられないことである。これは贅沢が値段の上下、外見の地味とぴかぴかなどと関係がないことを示すもので、それが如何にそうであるかは現在の東京では贅沢という言葉が忘れられてその代りに豪華という言葉が使われていることでも解る。大阪のかやく飯は東京の貧民の口に入るものではない。

 

たったこれだけの短い文だが

吉田健一らしい文で

彼の口吻に載せられておしゃべりを聞くように読めばわかるものの

文章として読んでいこうとすると

もう今の時代の人には

ちょっとわかりづらくなり始めているだろう

読点の少ないぶっ続け文は

彼が愛したプルーストの原文から吸い取ったものだが

いつまでもプルーストでやっていけるほど

文筆の世界は甘くはないし

流行や好みはおそろしいまでに変転していく

はたして

今どきの文章はどのようにあるべきだろう

10年後も廃れない文章はどうあるべきだろう

さらには50年後にも保ちそうな文章は

どのようなものであるだろう

 

この文など

まだまだ読みやすいほうだが

吉田健一の文章は

多量に連続して読もうとすると

いつも数段こちらの頭が悪くなっていく気がしてならない

読点の少なさも思考のギアチェンジのしかたも

わたしにはまったく合わなくて難儀する

とはいえ食べ物に関しての彼の思いは染み込むようにわかるので

ときどき読み直すことになる

 

ちなみに

読んでいてこちらの頭がわるくなっていく気にさせられるのは

吉田健一の他に

内田百閒と泉鏡花である

ちょっと読むのならかまわないが

思い切って数冊読んでしまおうなどと集中すると

ろくなことにならない

体調まで悪くなっていく

 

それはそうと

「贅沢が値段の上下、外見の地味とぴかぴかなどと関係がない」

と彼が書いているのは

まさにそのとおりで

素材の味を生かしてみごとに引き出す料理のしかたは

外見的には「ぴかぴか」ではなかったりする

誰もがあちこちで経験することなのだが

こんな経験が食い歩きの愉しさだったりするものだ

 

もう昔のことになるが

どこにでもあるチェーン店の富士そばに

駒沢学園前の駅近くで入った

 

富士そばは

いわば

しかたなしに入って諦めとともに食べるもので

誰も味覚になど期待しないだろう

 

券売機で食券を買い

調理場に出すと

めったにお目にかかれないような

無愛想きわまりないおばさんが厨房にいて券を取ったので

これはひどい店に入ってしまったと覚悟した

ところが出来てきたせいろは

なかなか出会えないほどのうまさで

茹でぐあいが素晴らしかった

富士そばであっても作り手によってこうも違うものかと

概念の変更を余儀なくされたことであった

 






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