食い道楽の吉田健一が
ものを食べるにあたっての「贅沢」について
当然のことのように洩らしているのは
「大阪のかやく飯」についての文のなかでである
東京生まれで
総理大臣になった吉田茂を父に持つ
ケンブリッジに学んだこの作家は
こと食においては
東京が「どこまで落ちて行くのか解らない」と
嘆くことしきりである
まずは冒頭を
これは東京では混ぜ御飯と言っているもので、
この文が載っている『私の食物誌』の内容は
1971年から1972年に書かれたものだから
彼が現在の東京の食事事情に触れたら
底なしに落ちていくばかりのブラックホール東京
とでもいうかもしれない
それで混ぜ御飯ももう忘れられているならば大阪のかやく御飯の説
大概そういう店ではこのかやく飯の他に粕汁とそれから何か煮締め
たったこれだけの短い文だが
吉田健一らしい文で
彼の口吻に載せられておしゃべりを聞くように読めばわかるものの
文章として読んでいこうとすると
もう今の時代の人には
ちょっとわかりづらくなり始めているだろう
読点の少ないぶっ続け文は
彼が愛したプルーストの原文から吸い取ったものだが
いつまでもプルーストでやっていけるほど
文筆の世界は甘くはないし
流行や好みはおそろしいまでに変転していく
はたして
今どきの文章はどのようにあるべきだろう
10年後も廃れない文章はどうあるべきだろう
さらには50年後にも保ちそうな文章は
どのようなものであるだろう
この文など
まだまだ読みやすいほうだが
吉田健一の文章は
多量に連続して読もうとすると
いつも数段こちらの頭が悪くなっていく気がしてならない
読点の少なさも思考のギアチェンジのしかたも
わたしにはまったく合わなくて難儀する
とはいえ食べ物に関しての彼の思いは染み込むようにわかるので
ときどき読み直すことになる
ちなみに
読んでいてこちらの頭がわるくなっていく気にさせられるのは
吉田健一の他に
内田百閒と泉鏡花である
ちょっと読むのならかまわないが
思い切って数冊読んでしまおうなどと集中すると
ろくなことにならない
体調まで悪くなっていく
それはそうと
「贅沢が値段の上下、外見の地味とぴかぴかなどと関係がない」
と彼が書いているのは
まさにそのとおりで
素材の味を生かしてみごとに引き出す料理のしかたは
外見的には「ぴかぴか」ではなかったりする
誰もがあちこちで経験することなのだが
こんな経験が食い歩きの愉しさだったりするものだ
もう昔のことになるが
どこにでもあるチェーン店の富士そばに
駒沢学園前の駅近くで入った
富士そばは
いわば
しかたなしに入って諦めとともに食べるもので
誰も味覚になど期待しないだろう
券売機で食券を買い
調理場に出すと
めったにお目にかかれないような
無愛想きわまりないおばさんが厨房にいて券を取ったので
これはひどい店に入ってしまったと覚悟した
ところが出来てきたせいろは
なかなか出会えないほどのうまさで
茹でぐあいが素晴らしかった
富士そばであっても作り手によってこうも違うものかと
概念の変更を余儀なくされたことであった
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