2025年8月13日水曜日

情報誌《ぴあ》の時代

 

 

 

 

生が終わって死が始まるのではない。

生が終われば死も終わる。

生に包まれないなんてあるわけない。

みんな聞いてくれ!

これは一寸したたわむれ、

お気に召すままの生と死の裏返し遊びなのだ。

早まるな、早まるな、誰かが生きている振りをすればいい。

それで何もかもがもとのようになるのだ

      寺山修司 『花札伝奇』

 

 

ご覧、たった一人の主人の不在が狂気を呼び覚ます、無の引力。

世界はいくつもの中心を持つ楕円の卵。

神が決してその姿を見せないのは、

あまりにも醜いその顔のせいだといいます。

主人がいないのが不幸なのではなく、

主人を必要とするのが不幸なのだと、

蝋燭の煤で壁に落書きをした逃亡の下男は、

今も被支配の円周を描き続けている。

主なき記憶。政治の藁、灰。

   寺山修司 『奴婢訓』

  

 

 

 

 

東京の新国立劇場で

811

細川俊夫の新作オペラ『ナターシャ』を見たが

名作であった

 

現代音楽によるオペラというのに

二時間半の長さを

飽きずに聞き通していけるようにできているのが

素晴らしくもあれば

驚きでもあった

初演に居合わせることができて

“歴史的に”幸せなことだった

と思えた

https://www.youtube.com/watch?v=llPxRCHcarU

 

もっとも

オペラというものが嵌め込まれている

抗いようもないヴィデオ・クリップ性のゆえに

多くのオペラ好きたちがやりたがるような

牽強付会な過剰解釈に陥っていく趣味は

『ナターシャ』の前であってもわたしには湧き起こらない

 

どっちに転んでもオペラはくだらないものであって

そのくだらなさやいい加減さやご都合主義のなかに

どうしてどうしてダヌンツィオ的陶酔が漂ってきてしまうところに

世の愛慾や人生そのものに似た無価値な史上の価値が

あるかなきかに揺蕩うというのを楽しめばよろしい

 

ダンテの『神曲』の地獄編を現代風に短縮したようなシナリオには

発想上の新味も深みもなかったし

現代文明への絶望に継ぐ絶望のすえに

とってつけたような天界上昇じみたもので終幕させるのも

ワーグナーのお気楽な焼き直しと見えるばかりで

既視感というか「おやおや」というか村上春樹的「やれやれ」というか

しかしながら2時間半の舞台娯楽としては

まずは十二分に面白かったのだからすべてよしなのである

そこらの映画よりももちろんテレビの番組の数々よりも

圧倒的に面白かったというところに

現代や近未来におけるオペラの可能性を見せつけたのが

なによりも『ナターシャ』 の成功であっただろう

 

というより

逆に

すぐれた冴えた演出と美術に支えられれば

現代音楽によるオペラのほうが

そこらの映画やテレビの番組の数々よりもはるかに面白い時代が

じつは来てしまっている

と驚かされ

この驚きこそが

新鮮だったのである

 

上演後に制作者たちのトークショーがあって

細川俊夫(作曲)とクリスティアン・レート(演出・美術)と大野和士(指揮)が

いろいろと話していたが

最後の場面のあの天界上昇的な演出を

「ユートピア的なものへ向かって……」云々と

断言するとか

ネタばらしするとか

解説するとかいうのではなしに

ちょっと口に出たという感じで細川俊夫がしゃべった瞬間に

わたしは

「ユートピア」の「ピア」という音に引っぱられて

1970年代から80年代頃

映画を見に行くにも

美術館に行くにも

コンサートに行くにも

どこへ行くにも

なにをするにも

情報雑誌の《ぴあ》を手にして動きまわっていたものだった!

と思い出し

その頃の東京の雰囲気のなかへ飛んでしまった

 

いまではガラケーと呼ばれる携帯電話や

いまでは誰もが持っているスマートフォンを

だれひとり持っていなかったし

そのような利器が世に出まわる可能性さえ

だれひとり確信していなかったあの時代

映像や音楽や舞台の情報を手に入れるには情報誌《ぴあ》を買うしかなく

また情報誌《ぴあ》を手に入れさえすれば

映像や音楽や舞台の情報にはもれなくアクセスできた

あの雰囲気のなかにすっ飛んでいってしまい

しばらくわが霊魂は

戻ってくることができなかった!

 

たくさんの若者が

映画好きが

舞台好きが

音楽好きが

《ぴあ》を手に持って

東京のあちこちを歩きまわっていたのを思い出すと

隔世の感というより

現代の人間がスマホを持って東京を歩きまわっているのと

なんら変わっていないではないか!

と思えてくる

 

『書を捨てよ、町へ出よう』

寺山修司さん!

あなたは呼びかけたが

若者たちは

書を《ぴあ》に持ちかえただけで

情報に導かれていくことをやめなかった

 

現代人は

さらに

スマホという無限書物に持ちかえ

いっそう厖大な情報に導かれていくのを

選んだ

 

『ナターシャ』の地獄めぐりは

森林地獄

快楽地獄

洪水地獄

ビジネス地獄

沼地獄

炎上地獄

旱魃地獄などだけだったが

どうして

スマホ地獄や

情報地獄や

カルチャー地獄や

アート地獄や

文化人ぶり地獄や

知識人ぶり地獄や

健康志向地獄や

コンビニ地獄や

グルメ地獄なども

加えられなかったのだろう?

 

「舞台での出し物を考える時に

なにかというと

地獄めぐりでいいんじゃないの?

と思いついて

それで済ましていってしまう」

紋切り型クリエイティヴ地獄なんかも

 

ともあれ

《ぴあ》を持ち歩くことを始めた頃から

そして

スマホを始終見て歩くようになったいま

人々は捨てたのだ

どこにも行き着かない喜びを

とりあえずの目的地に

直線距離で行き着かない彷徨の愉しさを

 

「漂泊とはたどりつかぬことである」

というあなたの言葉を

寺山さん

ひさしぶりに

思い出しておこう

 

「漂泊」?

なあに時代錯誤に

昭和後期ロマンしてるんだ!

などと

悪口を言われるようなら

寺山さん

あなたのこの言葉も

思い出しておこう

 

「悪口の中においては

常に言われているほうが主役であり

言っているほうが脇役である

という宿命がある」






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