「いや、未来の永世じゃない。この世の永世です。
ひとつの瞬間がある。その瞬間に到達すると、時は忽然と止まってしまう。
それで、もう、永世になってしまうのです」
(ドストエフスキー『悪霊』の中のキリーロフの言葉)
ミハイル・バフチンは
1937年から1938年に書かれた『小説の時空間』で
「スイフト、スターン、ヴォルテール、ディッケンズのうちに認められるのは、
ラブレーの笑いが順次細かくなり浅くなってゆく過程である。
(……)生の大いなる現実から離れてゆく過程である」
と書いている
薄れていったもの
失われていったものは
ラブレーの作品において噴出していた
「広場の卑語」
「民衆的・祝祭的形式とイメージ」
「饗宴のイメージ」
「グロテスクな肉体のイメージ」
「物質的・肉体的下層のイメージ」
などであり
さらには
「公的な場では許されない言葉づかい」
「嘲りや罵りの言葉」
「不作法な言い廻し」
「酒席とむすびついた 用語や表現」
などの
「公認されざる領域」のうちにこそある言語宇宙
だった
まったく
平成から令和にかけての
薄っぺらにチープに取り澄ました
偽のお上品さ(というのも
裏では
もっとも醜い金銭取り引きや権力奪取が
横行していた時代だからだが)
への傾斜に似ている
バフチン流にまとめて言えば
民来の肉体的な諸要素が
社会的諸要素や宇宙的諸要素と結びあい
渾然一体となって現れてくる「グロテスク・リアリズム」の
細まりや
衰微いっぽうの
18世紀や19世紀であって
20世紀
ともなれば
もう目も当てられない民衆言語殺しの時代と
なったといえる
戯れも変奏も許さず
独断と権威の押しつけを真骨頂とし
つねに硬直した狭量なモノローグへ向かう「公式」に対して
それを揶揄し罵倒し転倒しつづける
「非公式」なカーニバル的対話を発生させるものとしての小説は
ラブレーにおいてこそ最大限に開花し
いかなる独断論も
いかなる権威の押しつけも
「ラブレー的イメージとは共存しえない」レベルに達した
バフチンによれば
これを19世紀において
唯一
例外的に蘇らせたのはドストエフスキーで
彼の小説のクロノトポスは
「聖史劇やカーニバルの時間の全体を包み込む大きなクロノトポスの伝統」の
「更新」であると見なしうる
ということに
まあ
なるらしい
平成を経て令和に至るや
硬直
独断
狭量
権威の押しつけ
で
高度に固まるに至ったニッポンのさまざまな「公式」たちを見ながら
1970年代や1980年代に
あんなに流行ったバフチンの批評や思想を
そろそろ
思い出しておくべきではないか?
という
思いしきりなのである
だが
昨今で成長めまぐるしいのは
SNS系の映像使用の「非公式」世界であり
もうちょっとうまく箍(たが)を外せば
ラブレー的なみごとな「グロテスク・リアリズム」が
花開かないでもない
いきなりラブレー開花に至らなくても
ダンテやボッカチオ
シェークスピア
セルバンテスなどのレベルは
出現してくるだろう
賭けられているのは
「非公式」界の大爆発であり
「公認されたものとははっきりちがう特異な言語体系」であり
その永続的な炎である
*バフチンの著作である『ドストエフスキー論』、『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』、『小説の時空間』やドミニック・ラカプラ『思想史再考、テクスト・コンテクスト・言語』
などからの単語を散りばめてある。