2025年11月30日日曜日

Sing of good things not bad


 

 

ある瞬間に

なにを言葉にしたらいいか

なには言葉にしないほうがいいか

 

なにをどんな言葉に繋げたらいいか

繋げないほうがいいか

 

とっさに

正しく知るのはむずかしい

とても

とても

 

思いながら

あかるい陽光のなかで

きらきら赤らむ

桜の葉の紅葉の下を歩いていった

 

Mp3のプレーヤーから

コードを伸して聞いていたのは

たまたま

カーペンターズの「Sing」で

 

Sing of good things not bad

Sing of happy not sad

 

不意をつかれるほど

つよく

ただしく

響いてきた

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=HjDumXJPMY4






2025年11月26日水曜日

「非公式」界の大爆発のために

 

 

 

「いや、未来の永世じゃない。この世の永世です。

ひとつの瞬間がある。その瞬間に到達すると、時は忽然と止まってしまう。

それで、もう、永世になってしまうのです」

(ドストエフスキー『悪霊』の中のキリーロフの言葉)

 

 

 

 

 

ミハイル・バフチンは

1937年から1938年に書かれた『小説の時空間』で

「スイフト、スターン、ヴォルテール、ディッケンズのうちに認められるのは、

ラブレーの笑いが順次細かくなり浅くなってゆく過程である。

(……)生の大いなる現実から離れてゆく過程である」

と書いている

 

薄れていったもの

失われていったものは

ラブレーの作品において噴出していた

「広場の卑語」

「民衆的・祝祭的形式とイメージ」

「饗宴のイメージ」

「グロテスクな肉体のイメージ」

「物質的・肉体的下層のイメージ」

などであり

さらには

「公的な場では許されない言葉づかい」

「嘲りや罵りの言葉」

「不作法な言い廻し」

「酒席とむすびついた 用語や表現」

などの

「公認されざる領域」のうちにこそある言語宇宙

だった

 

まったく

平成から令和にかけての

薄っぺらにチープに取り澄ました

偽のお上品さ(というのも

裏では

もっとも醜い金銭取り引きや権力奪取が

横行していた時代だからだが)

への傾斜に似ている

 

バフチン流にまとめて言えば

民来の肉体的な諸要素が

社会的諸要素や宇宙的諸要素と結びあい

渾然一体となって現れてくる「グロテスク・リアリズム」の

細まりや

衰微いっぽうの

18世紀や19世紀であって

20世紀

ともなれば

もう目も当てられない民衆言語殺しの時代と

なったといえる

 

戯れも変奏も許さず

独断と権威の押しつけを真骨頂とし

つねに硬直した狭量なモノローグへ向かう「公式」に対して

それを揶揄し罵倒し転倒しつづける

「非公式」なカーニバル的対話を発生させるものとしての小説は

ラブレーにおいてこそ最大限に開花し

いかなる独断論も

いかなる権威の押しつけも

「ラブレー的イメージとは共存しえない」レベルに達した

 

バフチンによれば

これを19世紀において

唯一

例外的に蘇らせたのはドストエフスキーで

彼の小説のクロノトポスは

聖史劇やカーニバルの時間の全体を包み込む大きなクロノトポスの伝統」の

「更新」であると見なしうる

ということに

まあ

なるらしい

 

平成を経て令和に至るや

硬直

独断

狭量

権威の押しつけ

高度に固まるに至ったニッポンのさまざまな「公式」たちを見ながら

1970年代や1980年代に

あんなに流行ったバフチンの批評や思想を

そろそろ

思い出しておくべきではないか?

という

思いしきりなのである

 

だが

昨今で成長めまぐるしいのは

SNS系の映像使用の「非公式」世界であり

もうちょっとうまく箍(たが)を外せば

ラブレー的なみごとな「グロテスク・リアリズム」が

花開かないでもない

 

いきなりラブレー開花に至らなくても

ダンテやボッカチオ

シェークスピア

セルバンテスなどのレベルは

出現してくるだろう

 

賭けられているのは

「非公式」界の大爆発であり

「公認されたものとははっきりちがう特異な言語体系」であり

その永続的な炎である

 

 

 

 

 

*バフチンの著作である『ドストエフスキー論』、『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』、『小説の時空間』やドミニック・ラカプラ『思想史再考、テクスト・コンテクスト・言語』

などからの単語を散りばめてある。

 

 





新たなるアレクサンドレイア的グノーシスの只中に

 

 

 

火は充足の欠乏である。

ヘラクレイトス

 

 

 

 

グスタフ・ルネ・ホッケ(Gustav René Hocke)

『文学におけるマニエリスム』

(Manierismus in der Literatur1959)に

このような箇所がある

 

 

おそらく近代の知的ヨーロッパ人は、技術大衆社会のメールシュトロームのなかに埋没しているのでないかぎり、絶対的なものについての知識、すなわち芸術家や詩人や作曲家の作品のなかの神経症的問題性からの救済をもとめることによって、その精神的環境の一人の新しい、きわめて創造的な代表者となるであろう。

なんという変貌か!

私たちがふたたび一個の新たなるアレクサンドレイア的グノーシスの只中に、絶対的存在との出会いにほかならぬ〈原-真理〉を、とりわけ芸術、文学、音楽のなかに見出そうとするようなグノーシスのなかに、したがって〈教会以前の〉空間のなかにあることは、個人といえども看過しえないであろう。それは私たちにとって希望の微たりうる。*

 

 

芸術、文学、音楽は

作者が完成させたつもりでも

ほとんどの場合

未完成で

断片的で

乱反射的で

いかにそれらを読み込んで

周到な解釈を企もうとも

「絶対的存在との出会いにほかならぬ〈原-真理〉」を

それら作品に見出すことはできない

 

しかし

それならば全く無意味かと言えば

そうではなく

いかなる芸術、文学、音楽も

〈原-真理〉の破片や断片的な塊ではあり

それらから〈原-真理〉に至る道は

探求者の製錬技術やセンスにかかっている

おそらく

言える

 

このように考えて

グスタフ・ルネ・ホッケの思いに

ふたたび寄り添い直すのは

21世紀の今日でも

なお意味のあることだろう

 

「私たちがふたたび

一個の新たなるアレクサンドレイア的グノーシスの只中に」

あるということや

「〈教会以前の〉空間のなかにあること」

という認識は

現代においてこそ

いよいよ重要であり

秘教や

メタレベルから批評的に捉え直す際の宗教表象や言説ばかりか

芸術、文学、音楽も

「絶対的存在との出会いにほかならぬ〈原-真理〉」を製錬するには

やはり

重要なフィールドである

あらためて再認し直しておく必要が

ある

 

 

 

 

*グスタフ・ルネ・ホッケ 『文学におけるマニエリスム 言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』Ⅰ、種村季弘訳、現代思潮社、1971p.34.

 

 

 

 

幸福

 


 

幸福とは

区別や選択の消失

 

したがって

自意識の消滅

また

境界の霧散

 

天国とは

こうしたものとしての

幸福の

永続

恒久化

 

 

 

 

 

*あらずもがなの引用

ZARD「永遠」

https://www.youtube.com/watch?v=rlsERJeGz3A

 





人類の思念の垢


 

 

JE est un autre.

Arthur Rimbaud

 

 

 

 

地球に来てみて

文字で

なにか記してみると

じぶんの言葉だ

などと

思い込んでしまう人も

出てくる

 

言葉も

文字も

人類の思念の垢で

いま記す人のものでなどなく

記す人の思いも

無数の外的刺激の混淆や乱反射でしかないのに

じぶんの言葉だ

などと

錯誤するのを

喜んでいる

 

記す人の指でさえ

生物や人類の遺伝子のサンゴ

 

十代のランボーの知見に

せめては

到達しておこうよ

 

「私」とは他者だ(“JE est un autre.”)

 

あるいは

私は他者だ(“Je suis l'autre”)

という

ネルヴァルの知見に

 

さらには

フロイトの知見

「自我は自分の家の主人ではない」

dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus

 

もちろん

ポール・ヴァレリーの知見も

 

「他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか

人は自分自身とも通じあうことができない。

それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか

自分とも通じあえないということである。

彼は、私がとりあえず「他者」と呼ぶものを仲立ちとしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間を取り持つもの、それは「他者」である。」
                 (『カイエ』237909

 







2025年11月24日月曜日

12月は好き


 

12月は好き

 

近づいてくる

クリスマスの雰囲気

なんか

楽しげで

ちょっと暖かげで

子ども時代の思い出も

ゆらゆら

 

もらえるプレゼントも

もらえるかもしれないプレゼントも

もらえないプレゼントも

もらえたらいいなあというプレゼントも

いっぱい

街のあちこちの店に入ってきて

おもちゃの楽隊のように

いつもと違う

音を奏でているようで

 

クリスマスのむこうには

大みそかの忙しさも

賑やかさも待っていて

お正月もすぐに控えていて

いつもと違う

なんか特別な感じや

お祭り気分は

まだまだ続くぞと

寒くてつらいはずの冬が

とっておきの準備を

してくれているようで

 

12月は好き

わたしを

 

12月は

わたしを好き

 

いつものふつうの日々と違う

いろいろな出しもの

催しものを

どっさり準備してくれながら

楽しませようとしてくれていて

好き

 

12月は好き

 

12月は

わたしを好き





曲なしで読まれるためのことばは

 

 

 

あなたは本のこのページを開けた。

23ページめくってみて、

ぼんやりと題名や著者の名や発行者を見つめ、

ほとんどの場合に小説のはじめにある、

カッコに入れられた例の文も、たぶん、探してみた。

なにかしらいい感じになり、

著者がじぶんを守るために

じぶんよりもっと重要な誰かさんにちょっと繋がろうとするための

ああいった文だ。

ル・クレジオ 『愛する大地』

 

Vous avez ouvert le livre sur cette page.

Vous avez tourné deux ou trois pages,

en regardant distraitement le titre, le nom de l'auteur, l'éditeur,

et vous avez peut-être cherché cette phrase entre guillemets

qu'il y a presque toujours au début des romans,

parce que ça fait bien

et que l'auteur se protège

un peu en se référant à quelqu'un de plus important que lui. 

Le Clézio TERRA AMATA, 1967

 

 

 

 

 

歌われる曲のことばは

聞きやすくて

楽しくて

考えごともやめて

うっかり

聞いていたりする

 

曲なしで

読まれるためのことばは

ときどき

すっと意味が入ってこなくて

乗っていこうにも

迷わされたりもして

文字は読めても

読めなさが

ちょっとイライラ

 

けれど

曲なしで

読まれるためのことばにも

じつは

曲ができていて

段落わけや

漢字や

ひらがなや

カタカナの使い分けや

わざとっぽい

ぼかしぐあいなどを

ていねいに拾って辿っていくと

そうしたすべてが

じつは曲だったんだね

と気づく

 

そうして

街のなかを走る

ふつうの電車に乗りながら

窓のそとの

まばらな木々の通過や

次から次と

目に入ってくるいっぱいの家々や

あの道この道

とぼとぼ歩いている人や

走っていく自転車

後から後から

感心するほかない数の車なんか

見ながら

開いた本のことばたちにも

ちらちら

目をやり続けていると

聞こえてくる

曲が

音楽が

 

ことばなき歌

さえもが

 





2025年11月19日水曜日

なんにもなさへ

 

 

 

ist dies etwa der Tod?

Eichendorff

 

これが死、もしかしたら?

アイヒェンドルフ

 

 

 

 

大きな太陽フレアや

地底での地震の前駆的な揺れのはじまりに

非常に敏感で

体調が悪くなるわけではないが

とにかく

ひどく眠くなる

 

外で用事や仕事をしている時は

なんとか耐えつつ

活動し通すが

家にいて時間的に融通がきく際には

短時間ながら

思い切って寝てしまう

 

午後の寝室の中は

廊下と部屋を距てるドアを閉めてしまうと

夜よりも暗く

そんな中で身を横たえると

間違った妄想かもしれないながら

にとても近い気がする

 

暗さの中で

闇の中で

意識も暗がりに落ちていき

闇そのものになっていくかのような時

現実界でじぶんが備えている身体の輪郭は希薄になり

やがて失せていき

じぶんという思いの輪郭も薄れていって

じぶんなどというものが

じつは思い込みに過ぎなかったと感じる

 

ああ

じぶんなどというのは

たんなる暗さであり

たんなる闇であり

それがいっとき光の中に躍り出て

輪郭を持ち

かたちを備え

色も帯び

感覚も得て

温度までも保つような

幻想を

妄想を

踊らせていたに過ぎないのだな

沁みるように

わからされていく

 

かつては

こんな寝入りばなの感慨が

耐えがたいほど

さびしく

わびしく

さびしさの恐ろしさや

わびしさの恐ろしさに絞られながら

存在論的憔悴(のようなものの)のうちに

意識を失っていったものだが

地球体験が長くなるにつれ

こうしたさびしさやわびしさは

だんだんと親しいものになり

いまでは

じぶんという思い込みの消滅こそがじぶん

という認識まで

抱くようになっている

 

暗さの中で

闇の中で

じぶんも暗さに溶けていき

闇になっていき

じぶんという思い込みもすっかり失せていくことの

ああ

なんというやすらぎ!

深いよろこび!

底知れない幸福!

 

はじめから

じつはなんにもなかったんだよ

なにかがあり

起こっていると思ったのは

ぜんぶ

思い込みで

妄想で

まちがいだったんだよ

ぜんぶ

ちゃんと

ちゃんと

なんにもなかったことへ

なんにもないことへ

なんにもなさへ

思いという意識モニター上の表象も

戻っていくんだよ

 

名もなく

身体もなく

心もなく

やったこと

やらなかったこと

それらの

どれも

片鱗さえ

ないところへ

 

ふいに
思い出される

アイヒェンドルフ

 

リヒャルト・シュトラウスは

「夕映えの中で」

美しい曲をつけた

 

そうだ

1126日は

アイヒェンドルフの

命日

だったね

 

 

 

Im Abendrot

     Vier Letzte Lieder

Josef Karl Benedikt von Eichendorff

 

Wir sind durch Not und Freude
gegangen Hand in Hand;
vom Wandern ruhen wir
nun überm stillen Land.

Rings sich die Täler neigen

es dunkelt schon die Luft;
zwei Lerchen nur noch steigen
nachträumend in den Duft.

Tritt her und laß sie schwirren

bald ist es Schlafenszeit;
daß wir uns nicht verirren
in dieser Einsamkeit.

O weiter
stiller Friede!
So tief im Abendrot

wie sind wir wandermüde -
ist dies etwa der Tod?

 

 

 

夕映えの中で  
     4つの最後の歌  

ヨーゼフ・カール・ベネディクト・フォン・アイヒェンドルフ  

 

手をとりあってわたしたちは
苦しみや喜びのなかを歩いてきた
そしていま静かな土地の上に
さすらいの足を止めて憩う

まわりの谷は沈み
空には闇が近づいている
二羽のひばりだけが夜を夢見るように
夕もやの中に昇っている

こちらのほうへおいで、小鳥たちはさえずらせておいて
もう眠りの時が近づいてきているから
ふたりだけのこの孤独の世界で
はぐれないようにしよう

おお 広々とした静かなやすらぎよ!
夕映えのなかでこんなにも深くつつまれ

疲れてしまったね、さすらうことにも
これが死だろうか、もしかしたら?

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=Ur-Is-04SxU

 

https://www.youtube.com/watch?v=2OxZ27Z8U7U

 

https://www.youtube.com/watch?v=VdFllf7j1kI

 

https://www.youtube.com/watch?v=ppoqUVlKkBU

 

https://www.youtube.com/watch?v=co61XmUu-tc

 

https://www.youtube.com/watch?v=1B2LAmUsv1M