2015年12月6日日曜日

その人だけの楽園が開けるような気がするなら


美とは、わたしには幸福の約束でしかありえないと思われる。
スタンダール『ローマ、ナポリ、そしてフィレンツェ』


幸福にも美にも定義がないように
詩にも定義などない
喜怒哀楽や
小説に仕立てる根気のない生活のごたごたとか
希望や願望を書いて詩だと主張する人たちを
バカだなァ、本当に…と思うけれど
そんなことはその人たちの勝手
口調やリズムが詩だと言う人たちや
現実を超えた気分に至れるかどうかや
多層的な思念構造をコンパクトに盛り込めるかや
現実世界の多様な要素を混濁させられるかや
むかし小林秀雄が題名にしたように
『様々なる意匠』そのものの好き勝手な定義や
思い込みが未だにわさわさしている
詩という領域

そんな人たちが集まって
仲間内だけで詩人と呼び合っている光景も
さんざん見てくると
少なくともそういう場には詩はないということが
よくわかるようになる
よぉくわかるようになる
かつて流行ったことのある老詩人のまわりに
無名の詩人気取りさんたちが集まって
詩人資格とでもいうのかしら
そのハンコを押してもらおうと必死だったりする光景も
あちこちでうんざりするほど見るが
ハンコを押す手がもう世間には見向きもされない
老詩人のほうはといえば
介護してもらう際の人手集めや
忘れられないようにするために計算づくなので
双方でどろどろした欲の交わりであったりしている
いずれにしろ
世間はそんな老詩人など
忘れ切りもしないもののどうでもいいので
老詩人やそこに集まる連中があがいても
さばさばとした風景が続くばかり

詩というものはなんであってもいいし
なにを詩と呼んでも呼ばなくてもいいが
言葉というのは
ハッと
こちらに入り込んできてしまうことがあって
そんな瞬間を詩と呼ぶようにしてみると
埃くさい書庫や
カッコつけているアーティスト気取りの集まる
コンセプト古書店とかナントカヤ書店とか
もちろん
詩人さん行きつけのバーとかカフェとか
そんなところからは遠ざかるばかり
ごくふつうの日々のくり返しや
鄙びたマーケットのレジの後の荷台からの窓外の風景や
ふと立ってみるJRのホームの端っこや
入ることのない安ラーメン屋の幟を
かすめて行く瞬間こそが
詩にふさわしいところに感じたりする

どこにいたって
ハッと
言葉は入ってくる
詩人を気取る人たちのそばにいる必要はない
詩集の束を身辺に置いておく必要もない
どこもかしこも
詩でないところはない
ある言葉のむこうに
その人だけの楽園が開けるような気がするなら
それが詩
万人の楽園ではいけない
その人だけの楽園が開けるような気がするなら




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