2024年4月29日月曜日

ろくに読みもしない見栄っぱり


 

 

何はともあれ本を買え

         アーノルド・ベネット 『文学趣味』

 

 

 

 

興味本位で本をたくさん買うのに

ろくに

読みもしない見栄っぱり

 

という人種がいて

わたくしもその末席を汚し続けておるわけだが

そういうバカにも

存外

大きな存在価値がある

古書店に行くたびに思うのである

 

古本を買うとなれば

なるべく

きれいな状態の本を買いたい

やはり

思う

 

よく読んであって

線が引いてあり

囲んであったり

メモがあったりするのを見ると

かつての所有者は

しっかり読んでいてたいしたものだ

と感心するものの

いざ自分がこの本を買うかどうか

となると

ろくに読みもしないで

ほぼ真っさらな状態のままに置かれた

読書家のふりをするばかりだった

怠けものの所有者が所蔵していたほうを

やはり

選んでしまうことになる

 

これぞ

興味本位で本をたくさん買うのに

ろくに

読みもしない見栄っぱり

の効用

とでもいうべきものであって

まさに

こういう人士がたくさんいてくれるおかげで

古書市場は

一定の清潔感を保っている

と言えよう

 

書籍的浪費家や

読書的見栄っぱりあっての

古書文化

というものではないか

 


 

わたしはわたしに

 

 


没頭とは、頭脳が最大限に機能し、時間の観念がなくなり、

幸福感が浸透していく変性意識状態であると、

最新の調査が結論づけています。

調査はさらに、人はこの状態にあると、

努力を努力と感じない効率よい機能状態にあることを報告しています。

ある研究チームはこれを、「流れている状態」と呼んでます。

ダニエル・ゴールマン(ジャーナリスト・著述家)

 

 

 

 

テレビで

能の「忠度」をやっていたので

ものを食べながら

なんとなしに見ていたら

吸い込まれるように

見続けてしまった

 

能は

日本文学のそこまでの時代の

総決算でもあれば

華のような日本詩語の総覧でもあって

これあってこそ

その後の日本文学は

俳諧や戯作などのべつの展開を

豊かに花咲かせていくことができた

 

能は好きだが

実際に見に行くと

おもしろいのに

どうしても眠くなってしまう

あの声調やリズムが

たぶん

独特の電磁波を発生させるものと

思う

 

それに

今日日は

なんだかずいぶんと

チケット代が高い

 

どうせ眠ってしまうしなあ

と思うと

あの額を出すのは

もったいない気がしてしまう

 

もう二十年ほど前から

能はテキストを読むのこそ

いちばん楽しく

いちばん経済的で

いちばん楽だと

結論している

 

能の通ぶって偉がろうとかは

まったく

思っていないので

これで

かまわない

 

そのかわり

よさそうなテキストは

けっこうわがままに

買い集める

 

註が詳しくて

読みやすく

わかりやすい版がいいのだが

そういう本は分厚くて

重くて

嵩張るので

ちょっと出かける時に

ポケットに入れていくような時は

古い岩波文庫や

さらに古い有朋堂文庫などがいいが

これらには

註がまったくないので

逆にずいぶんと

読解に集中させられたりする

 

それにしても

能などは

二十一代集の読書のように

ブラックホールのような魅力があって

ほかの読書や

ものごとへの興味を消失させられてしまう

これらのみずうみの淵で

ある程度以上の深みに入り込めば

しばらくは

興味の核が水から上がって来れなくなる

謡曲に深入りすれば

現代語の読書にはまったく興味が失せ

二十一代集の淵から潜れば

現代語の詩歌や

外国語の詩歌などには

見向きする気がまったく失せてしまう

そんなふうにして

半年や八ヶ月ほどを

ほかの読書を一切せずに過ごした年月も

おそらく

十年ほどはあったのでは

ないか

 

あまりに集中しすぎて

まさに寝食を忘れるごとくに

それ以外のことを完全に忘れてしまうたちなので

逆に

集中ということを

必死にしないように努めてきた

激しい逆噴射の人生であった

 

いろいろなことをバランスよくこなして

誰よりも役人ふうに

常識人ふうに

生活も仕事も雑事も

すべて同時並行に進めてきた生涯だったが

本性はその真逆だった

よくピストルで

脳髄を撃ち抜いたりせずに耐えてこられたものと思う

 

でも

そろそろ

もう

いいよ

 

そろそろ

寝食を忘れ

現代語を忘れて

ひとつことに集中して令和に戻ってこなくなっても

いいよ

 

わたしは

わたしに

言いはじめている

 





2024年4月28日日曜日

ちょぱちょぱ

 

 

 

言葉が傷ついたら詩人は介抱しなければならないのに

ぼくの目にするものは死語ばかり

死語の世界で生きていることは

ぼくはあの世の人かもしれない

田村隆一「羽化登仙」

 

 

 

 

ずいぶんとひさしぶりに

亀戸天神まで

藤の花を見に行った

 

むかしむかし

よく歌仙を巻いていた頃

歌人たちとも見に来たことがあって

夕暮れからは

どこかの飲み屋に入って

畳に座りながら

歌仙となった

 

あの時に入った飲み屋は

どこの

どのあたりだっただろう?

と思いながら

十三間通り商店街や

その東側の

ごちゃごちゃした飲み屋街を

ちょっと彷徨ってみる

 

今となっては

見当もつかないが

飲み屋の集まっていたどこかで

参加者みな

ずいぶん飲みながら

六時間ほどは

歌を作り続けた

 

その時の歌人たちとは

今ではもう

連絡も取っていない

というより

取りようもないひとたちもいる

四人ほどは

死んでしまっているし

生き残っていると思えるひとも

もうどこかで

老婆となっているだろう

 

亀戸の夕暮れは

どこか

ちょっと汚いような

せまい

せわしない店に

ひとを誘う

淡い魔力がある

道のむこうの

細道のさらにむこうに

入ってもよさそうな店が

ないものか

と思いながら

彷徨を楽しんでみたりする

 

けれども

蔵前橋通りの鳥長で買った

焼き鳥数本と

山長で買った串団子と柏餅を

暗くなっていく

香取神社の境内でのんびり食べたので

結局どこの店にも入らずに

帰途についた

 

香取神社は

ちょっと古い時代の生き残りが

日本のあちこちで見慣れてきたような

懐かしい神社っぽさがあり

ベンチに座って

串団子の醤油だれを

ちょぱちょぱ

子どものように味わっているだけでも

こころの故郷となった

 

暮れてしまうと

香取神社の参道の両脇に並ぶ

手作りの燈籠のあかりが

あたたかい

 

死んだあの歌人たちも

いっしょに

このあかり

あのあかりと

眺めながら

歩いているのかもしれなかった

 

街を出歩く際には

朝から夜まで

ビール缶を手放さなかった

清見糺なども

あいかわらずロング缶を持って

わきに来ているのかもしれなかった

 

死んだひとたちも

それなりに

いそがしくしているようだから

こんな折りでもないと

なかなか

こっちの世界に

戻っては来れないのだろう

 

参道をゆっくり歩いて行く程度なら

あっちの世界なりの

いそがしさのなかでも

ヒョッと

やって来れたりするのだろう

 

 



植えたひとたちの手が


 

 

駅前や

歩道のわきや

 

街のなかで

季節の花々がきれいに

咲いている

 

ボランティアか

市町村から頼まれたひとたちか

だれかが

ていねいに植えて

咲かせてある

 

それらを見ると

以前は

花々や観葉植物そのものだけを

かるく

賞美しておくばかりだった

 

この頃は

植えたひとたちの

手が

思いが

配慮が

期待が

夢が

よく見える

 

花々の配置や

間のとりかたや

もちろん

選びかたに

植えたひとたちのこころが

よく見える

 

花々や

花壇さえもが

これほどまでに

ひとたちの姿なのだとは

これまで

思わないできた

 

そうして

思うようになった

 

どこの街の風景も

思いを以て

手を入れたり

手を入れなかったりした

ひとたちの

姿そのものなのだ

 

花々以外にも

ひとたちのこころは顕われる

看板にも

ポスターにも

家々の塀の古びぐあいにも

汚れぐあいにも

真新しいビルの床の

冷たく感じられる

非人間的なひかりの流れにさえも

 




2024年4月25日木曜日

なんとも香ばしい終末の季節

 

 

 

       Don’t give any energy to what doesn’t happen.

                                                                    Osho

 

 

 

 

イエス・キリストが生まれた年をもって

紀元1年とするわけだが

イエスは生まれた時からキリストだったわけではないから

キリスト暦のはじまりは

彼がキリストになった時に設定すべきだ

という考え方がある

(イエスは実際は紀元4年頃に生まれたのでは?

といった説もあるが此処では省く)

 

彼がキリストになったのはいつか?

というのも大問題だが

とりあえず

洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時とすると

30歳頃ではないか?

とよく言われているのだが

いやいや

26歳頃ではないか?

という説を出してくる人たちもいる

 

26歳説は

人類終焉の予言に愛着のある人に

すこぶる

受けがいい

 

例の有名なノストラダムスの大予言の

「第10巻72番」の詩

 

19997か月、

    空から恐怖の大王が来るだろう、

    アンゴルモアの大王を蘇らせ、

    マルスの前後に首尾よく支配するために」

 

これは

みごとにハズレたかに見えたわけだが

イエスが26歳でキリストになったという説を採れば

1999年より26年遅らせて考える必要が出てくるので

2025年こそが

空から恐怖の大王が降ってくる

ということになり

巷で大流行の終末預言の

202575日の隕石落下説に

みごと

ぴったりハマってくることになる

 

となると

20257の月

空から隕石や人工衛星のたぐいが降って来て

世界に大災難がもたらされ

古代の大王が蘇ることになる

軍事の支配的となる時代があるが

古代の大王のよき支配となるだろう

といった予言が浮き上がってくる

 

なぜだか

「アンゴルモアの大王」を

天皇のことだと見なしたい人々が

日本には多くて

どうしてモンゴルの大王とか

ハン帝国の大王だとかを

考えないのだろう?

と首をかしげたくもなるのだが

まあ

そういうところに

せめてもの夢を見ておかないと

いまや凋落はげしいニッポンの民にとっては

もはや

救いがないのかもしれない

 

ともあれ

20257の月に終末が来るという説を唱える人たちは

2025年7月と言われていたのが

どうやら早まって

今年2024年に大きな地震がたび重なり

大津波も重なって

日本列島の太平洋側は相当の被害を受ける

と言い始めている

これらの後に

2025年7月の決定打が来る

というのだから

今年から来年にかけては

絶叫型の長大ジェットコースターに乗ったような

日本列島龍神の度肝を抜く踊りに

ながながとつき合わされることになるのだろう

『千と千尋の神隠し』のハクにでも乗った気になれば

ちょっとは

神事めいて感じられてくるかもしれない

 

ところで

もし

2025年7月になにも起こらなかったら

どうなるの?

 

もちろん

その場合は

終末思想業界は

イエス30歳洗礼説にサッと乗り換えて

2029年7月終末説を唱えはじめるだろう

 

それさえもハズレたら

そもそも

イエスはキリストになっていなかった説を打ち出してきて

基板となる発想そのものをご破算にしかねない

だいたい

ユダヤ人ははじめから

イエスをキリストとは認めていない

マホメットなど言うまでもなく

あの始末

 

けれど

存外

天照大御神は

認めるかもしれない

例の

伊勢神宮=ユダヤ教説

思い出しておこう

伊雑宮は

イザヤが来たところで

あの下には

トーラーを守るユダヤの聖櫃が埋められている

という

あれ

 

伊雑宮の石燈籠には

ダヴィデの星が刻まれているし

伊勢神宮の内宮から外宮に至る道の石燈籠にも

ダヴィデの星があった

京都の真名井神社から掘り出された石碑にも

ダヴィデの星があり

個人的に訪ねたところでは

仁和寺の奥のほうにも

燈籠にはダヴィデの星が刻まれていた

 

とはいうものの

まあ

さて

さて

さて

この世に流行る終末論は

どれもこれも

わが鶴屋南北先生の御作ぐらいに考えて

せいぜい楽しんでおくのが賢いところ

鶴屋南北先生どころか

ひょっとしたら

山田風太郎先生の謹製かもしれない

世はなべて

『魔界転生』に過ぎない

 

ところで

ユリウス暦でいう19997月は

現在使用のグレゴリオ暦に換算すれば

1999714日頃から814日頃までになるから

2025年7月になんにも起こらなかったぞ、イェーイ!

などと気を抜いていると

もうちょっとしてからガツンと来る可能性がある

2025年7月から8月上旬頃までが

なんとも香ばしい

終末の季節である