Xだの
Instagramだのに
ネット上で見つけた他のひとの花写真や風景写真を
気まぐれに投稿し続けるのも
じつは
意想外の大いなる「自己」発見につながる
(もちろん
「自己」なんて
はじめから最後まで
いつも
いつまでも
ないから…
という前提での
物質界への無銭旅行の
つかの間の
お座興ではあるが)
やはり
拾ってくる写真や絵に
いつのまにか
どうしても
偏りが出てきてしまうもので
どうでもいい写真や絵を
どうでもいいぐあいに投稿していくだけ
とは思っていても
じぶんがおのずと選んでしまうもの
どうしても選ばないもの
などの差は
だんだんと歴然としてくる
そういう「差」が
つまりは
「自己」だったわけか
と気づかされてくるわけだ
間接的「自己」の否応ない発見が
こうして為されていく
それに
たかがInstagramといっても
あのちっぽけな碁盤並べのしかたに
色だのかたちだのの
好みぐあいや選択ぐあいが
多量に並べ続けているうちには出てくるし
Xのほうだって
さっき赤っぽいものを載せたから
次にはきみどり系の面積の多いものを載せよう
などと
自然に調整が起こってくる
他人に見てもらうことを一切考えずに
願わずに
切手のコレクターや
お菓子のちっちゃなおまけのコレクターや
絵はがき集めが趣味のひとのように
まったくわがままに
好き勝手にやっているだけのことなのに
というか
それだからこそ
InstagramやXなどの電子空間に
写真や絵を並べてみるのも
自室の壁にいろいろと掛けてみたりするのに似た
空間修飾感覚が発揮されたり
修正されていったりする
XだのInstagramだののいいところは
物理的な場所をまったくとらない
というところで
これは本当にすばらしい
それでいて
実質的にやっていることは
自室の装飾だの
回廊の壁への絵画や写真並べだの
趣味のあれこれの保管室のなかの装飾だのと
かわらぬことをやってしまっている
という点だ
じぶんが並べた投稿を
ふり返って見直すことはほとんどないが
たまに直近のものをふり返ると
ああ、じぶんはこういう精神構造なのか……
と部分的に
「自己」反省をする機会が得られる
そこに見出される「自己」に
愛着も
親近感も
まったくないのが
ある時期からの「私」の特徴だが
ともあれ対他的に
そうした「自己」構造が
いまの「私」として投影されていることは
認識しておいて悪くない
いまの私のこの「私」も
いまの私のこの「自己」も
どこのコンビニでも買える程度の
大量生産品の仮面に過ぎないとは思っているけれども
とりあえず
そこにゴミが付き過ぎていたり
おできができていたりしたら
ちょっと恰好悪いので
鏡をときどき見てみるわけだが
そんな鏡の役わりを
XだのInstagramだのが務めてくれる
いま記している
この
どうでもいい文字並べの形式も
また