打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして
春日井健
TwitterとInstagramに写真や画像を載せ続けてみていて
いつのまにかずいぶんな枚数になった
Twitterのほうの枚数などは優に2万を超えて2万5千も超えるらしい
自分が撮影した写真や自分が描いた絵画の写真ではなく
インターネット上で見かけて興味を惹かれたものを載せるだけなので
100パーセントなんの意味もない行為といえる
創造行為の提示でもなければ商売への誘導でもない
そもそもTwitterのほうには
「情報の外れへ、意味と有益さを逸れて」
というちょっと気取ったモットーを記してある
いま見直すと気恥ずかしくなるが正確な気持ちではある
インターネット上には興味を惹かれる写真や美術などがずいぶんある
それを時々コピーしてパソコンやスマホに保存するうち
自分の側の機材のメモリーを食わせないように
TwitterやInstagramに保存することを思いついた
そうして始まった画像収集に過ぎないのだが
こんなふうに画像を収集することにも見続けることにも
いつかきっと飽きてしまうだろうと踏んで始めた行為なのに
未だに飽きないで続けている
きれいさっぱりと無意味で愚かこの上ない行為なのに
未だにやめられないでいる
もう厖大な時間をこれに費やしてしまっているが
未だにやめられないでいる
未だにやめられないのは
興味を惹かれほんの少しでも手元に置いておいてみたいような画像が
2万5千を超えてもまだまだネット上には存在するからである
じつはこのことは今になって痛切にわかるようになった意想外の事実で
はじめのうちは
数百や数千も収集すれば飽き飽きしてしまうだろう
私自身の好奇心は必ず早急にすり減り
興味を惹かれるという精神の若さや幼さや新鮮さも失せるだろう
だいたい画像などというものの美学的・快楽的なパターンはごく有限だろう
そう信じ込んでいた
つまり何の意味も価値もないはずの画像の収集行為が
私にとっては私自身についての再発見の過程となったのである
見ても見ても見ても集めても集めても集めても尽きない
私の興味を惹き続ける画像の陸続たる存在に私は眩暈を覚えている
こんなちっぽけなアングルから私は世界の豊穣さに直面しているといえる
もしTwitterやInstagramをこんなふうに愚かしく用いていなければ
私は自分の専門としなかった写真や美術の世界の限界性を抽象的に信じ込み
この人界の想像力や創造力の限界性の狭小さについて
世のたいていの大人たちのようにわかったつもりなっていただろう
なんの意味もない下らない愚かな時間つぶしのおかげで
私は少なくとも人間が作り出す画像の無限さについては認識を新たにし続ける
画像とはひとつの宇宙であるばかりかたった一枚にして永遠である
それがなければ見いだせない無限の重層宇宙への入り口でもある
こういうことが身にしみてわかるということを「意味がある」とか
「意義がある」とか「価値がある」とか私は言わないし言いたくない
どこまでも価値がなく愚かであり下らないと言いたがる私であるし
そう言い続けることが精神の品格でもあれば謙譲さでもあると思っている
誰よりも下らない愚劣極まるTwitterやInstagramの使い方のおかげで
私はひさしぶりにソビエトの強烈な文芸評論家バフチンの言葉を思い出す
彼の有名なドストエフスキー論にいわく
「世界にはいまだかつて何ひとつ決定的なことは起こっていない。
世界についての最後のことば、
世界の最後のことばは、まだ語られていないし、
世界は開かれたままであり、
自由であり、
いっさいはこれからであり、
永遠にこれからであろう」