2023年6月30日金曜日

なんという研ぎ澄まされた緻密で精妙な狂気

 

 

 

真実とは、みずから錯覚であることを忘れた錯覚である。

フリードリヒ・ニーチェ

 

 

 

 

六月二八日に

初台の新国立劇場で『ラ・ボエーム』を聴いた

 

指揮は大野和士

演出は粟国淳

楽しかったし見事で

他の数ある名演と比較する必要もない出来映えで

満足が行き

つまり

とてもよかった

特に第二幕の演出の楽しさは出色だった

 

わたしにとっては

これは生涯思い出に残る『ラ・ボエーム』となるだろう

そう思われた

 

難を言えば

ロドルフォ役のスティーヴン・コステロが

ときおり

楽器に負けてしまうことがあるように聞こえたところか

とはいえ

それも

好みで分かれるものかもしれない

 

しかし

劇場側にとっての大失策があった

第二幕のはじまりで

音楽の開始に舞台が付いて来れなくなり

いったん停止して

再開し直したことだ

 

照明準備が整わないうちに

音楽のほうが始まって

しばらく進んでいってしまったのだった

 

失策には違いないだろうが

聴衆の側にとっては

ちょっと面白いハプニングで

停止して説明が入った後

客席からはすこし笑いが湧いた

これが

逆に舞台と聴衆を引きつけることになり

その後の第二幕以降は

聴衆の側からすれば

もっと楽しく展開を受けとめていけることに

繋がった

歌舞伎で舞台と客席を繋ぐ花道の役割を

このちょっとした失策が

予定外に演じることになったようなものだった

 

 

まあ

それは

それとして。

 

 

いったん停止して

第二幕が再開されるまでの

しばらくのあいだ

わたしは

劇場内の天井や

照明のあれこれや

二階席や

三階席などを見上げて

日ごろ

それほどしげしげ見上げるわけでもない

劇場内を見直していた

 

昔なら

想像もつかないような

オペラ向きの立派な劇場が

25年前にこのように出来て

たまたま今夜

じぶんは1階16列35番に座って

プッチーニの最も乗りのいい『ラ・ボエーム』を

名指揮者大野和士の指揮で聴いている

と思った

 

しかし

こうも思ったのだ

 

じぶんが生まれてからの日本は

というより

祖父母や父母の世代からの日本は

結局

欧米の正確な模倣に営々と励んできただけのことで

その結果が

新国立劇場のこの立派なオペラ空間でもある

そういうことではないか?

 

欧米のどこの国も

国立の歌舞伎劇場や雅楽堂や能楽堂や文楽劇場を建てたりはしない

観客が高い料金を出してそれらを見に来るわけでもない

しかし日本は

ヨーロッパのものであるオペラに恋し続け

日本人の立派なオペラ歌手も育てられるようになり

欧米から優れたオペラ歌手を呼んだり楽団を呼んだりする

今では見事にオペラを我がものとし

欧米に肩を並べられるほどに成長したと言えるものの

それが見事であればあるほど

底なしにうら寂しい眺めではないのか?

どこまで自らの本性を捨て切り

どこまで欧米の模倣だけを進歩と呼んで邁進し続けるのか?

 

ヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画『フィッツカラルド』では

クラウス・キンスキー演じるオペラ狂いのアイルランド人フィッツカラルドが

アンデスに鉄道を敷設しようとして失敗し

次にはイキトスにオペラハウスを建てるべく

アマゾン奥地にゴム園を拓いて一攫千金を試みたり

インディオを酷使して巨船を山越えさせる狂気ぶりを発揮するが

日本は列島全体ではるかに底知れない狂気を演じているだけではないか?

 

武力と経済力を我がものとしたヨーロッパとアメリカの時代に

アジアの極東の一小国として居合わせてしまった不幸

といえばいえるのかもしれず

人類史的にはただそれだけのことかもしれないが

それにしても

なんという研ぎ澄まされた緻密で精妙な狂気

知性も感性も悟性もいっぱいに注ぎ込んで

何世代もかかって一身に欧米の模倣にのみ邁進するという喜劇

この哀しさはいったいどれほどのことか?

新国立劇場内の立派な様相を見続けながら

これを思わざるを得なかった

 

小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』には

三軒茶屋のトリスバー「かおる」で

かつて駆逐艦「朝風」の艦長だった平山(笠智衆)と

元一等兵曹の坂本(加東大介)が

こんな会話をする

 

坂本 けど艦長、これでもし日本が勝ってたら、どうなってますかねえ?

平山 さあねえ…

坂本 勝ってたら、艦長、今頃はあなたもわたしもニューヨークだよ、ニューヨーク。パチンコ屋じゃありませんよ、ほんとのニューヨーク、アメリカの。

平山 そうかねえ…

坂本 そうですよ。負けたからこそね、今の若い奴ら向こうの真似しやがって、レコードかけてケツ振って踊ってますけどね。これが勝っててごらんなさい、勝ってて。目玉の青い奴が丸髷か何か結っちゃって、チューインガムかみかみ三味線ひいてますよ、ざまあ見ろってんだい。

平山 けど負けてよかったじゃないか。

坂本 そうですかね、ウームそうかも知れねえな、バカな野郎が威張らなくなっただけでもねえ。艦長、あんたのことじゃありませんよ、あんたは別だ。
平山 いやいや

 

大平洋戦争でカルタゴ並みの大敗戦を喫した後

日本は78年かけて

この元一等兵曹坂本の

「これが勝っててごらんなさい、勝ってて。

目玉の青い奴が丸髷か何か結っちゃって、

チューインガムかみかみ三味線ひいてますよ、

ざまあ見ろってんだい」

というセリフを

国民総出で強制自粛し必死に押し殺してきたのだった

ただそれだけの78年であり

この国に歴史と呼ぶべき歴史は

わずか一片も

存在はしなかった

 

こう言ったからといって

もちろん

これは大平洋戦争の称揚でもなければ

かつてナチスドイツがヨーロッパに対して行なったような

次の報復戦へのハッパ掛けの意図を持つものでもない

この国に

次の報復戦なるものはあり得ない

本当にカルタゴ化されたのであり

骨の髄まで

精神の髄の髄まで滅ぼされたからである

 

仮に

大平洋戦争に勝って

本当のニューヨークへ日本人が乗り込み

「目玉の青い奴が丸髷か何か結っちゃって、

チューインガムかみかみ三味線ひいて」いたとしても

日本人はやはり

新国立劇場を建て

知性も感性も悟性もいっぱいに注ぎ込んで

何世代もかかって一身に欧米の模倣にのみ邁進し続けただろう

 

この国の病は

太平洋戦争に勝つ程度のことで癒えるような

そんな浅いものではないのだから

 

もっともっと古い頃に

とうの昔に

魂を

蒸発させてしまっていたのだから

 

「この世は無常とは決して仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常といふ事がわかつてゐない。常なるものを見失ったからである。」

 

小林秀雄『無常といふ事』

 

「常なるものを見失った」のは

いつだったか?





2023年6月28日水曜日

遠距離列車の窓外のえんえんと続く草原の風景のような


 

 

現代の映画を見ると

ストーリーの中に

見せ場や

伏線や

いわゆるキャラ付けというのか

観客の心を惹くような

大小の癖のある人物造形が

これでもか

これでもか

と作り込まれていて

 

飽きる

 

どの映画を見ても

これでもか

これでもか

と作り込まれているが

どの映画も

これでもか

の作り込み方が同じで

 

飽きる

 

飽きないための

映画

だよな?

って

思うんだが

 

飽きる

 

なにが画面上で起ころうと

展開されようと

だいたい一時間半とか二時間とかすれば

解決するんだ

 

そんな解決へ

ゴタゴタ

ワラワラ

ズドン

ドキューン

ボカン

ドッカーン

を一定数響かせたあげく

収めようとする

心根

すけすけ過ぎて

 

飽きる

 

そうして

あれや

これやの

映画を見ながら

想うのだ

想像するのだ

 

ストーリーのない

見せ場や

伏線や

いわゆるキャラ付けのない

観客の心を惹くような

大小の癖のある人物造形など

これでもか

これでもか

などとは

作り込まれていない

ポッカーンとした

あっけらかーんとした

遠距離列車の

窓外の

えんえんと続く草原の風景のような

そんな映画

大ヒットしちゃったり

しないかな

 

どこの国でも

都会の立派な映画館で

また

場末の

古い椅子の映画館で

遠距離列車の

窓外の

えんえんと続く草原の風景のような

映画

何ヶ月も

そればっかり

大ヒット

 

 



ヨアナ・マルヴィッツやカーチュン・ウォンや

 

 

クラシックを聴くのが好きで

しかも

よく知らないでいた演奏家のものを見つけるのも好きなので

かなりの量を聴き続けているが

若くて

楽しくて

元気な指揮者としては

ヨアナ・マルヴィッツ(Joana Mallwitz)が

やはり

いちばんわくわくさせられた

35歳でベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の首席指揮者となったので

これからも大活躍するだろう

彼女のシューベルト『交響曲第8(ザ・グレート)の奇跡的な演奏は

指揮する楽しさいっぱいの

みずみずしい演奏で

この曲そのものを再発見させられた

なんと彼女

ハイヒールで指揮しているのだ

https://youtu.be/KcWIdZz4C44

 

楽しさいっぱいと言えば

シンガポールのカーチュン・ウォン(Kahchun Wong)が凄い

この人の指揮は

見ていて本当に楽しい

チャイコフスキーの第5番フィナーレなど

こんなに凄い曲だったか

と再発見させられた

作品の勘どころを把握し尽くし

チャイコフスキーの演奏はこうあるべきだと

威風堂々たる

誰にも似ていない独自の演奏

ミュージカル・アメリカ誌では

「音楽性の深さと誠実さ」と評されたそうだが

オーケストラと会場を音楽そのものとする音楽霊降臨的迫力

とわたしはつけ加えたい

https://youtu.be/IqhQSozZbw8

 

大指揮者クルト・マズアの愛弟子で

1986年シンガポール生まれというから

37歳ぐらいか

ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学で学び

2016年グスタフ・マーラー国際指揮者コンクール優勝

デトロイト交響楽団

シアトル交響楽団

東京都交響楽団

ニュルンベルク交響楽団での客演を経て

ウィーン楽友協会デビュー

今年2023年9月からは

日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者に就任するというし

ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者にも就任する

いちばん最近の情報では

20249月からイギリスのマンチェスターのハレ管弦楽団の

首席指揮者およびアーティスティック・アドバイザーに就任するそうで
昇竜のごとき勢い

 

それにしても

若いなあ

 

若い人たちに

飛び抜けた才能が多いなあ

 

政治や経済面では人類の劣化や悪が酷くなっているが

他の分野では

人類の顕著な進化が進んでいる気がする

 

絶望主義者諸君!

いろいろな分野に目を向けないとね!





けっして外へ踏み出ることがない言葉

 

 

 

善とはなにか

善きものとはなにか

 

これについては

マイスター・エックハルトは明解に語っている

 

善きものとはなにか

みずからを分かち与えるものが善きもの

みずからを分かち与えて役に立つ人を

わたしたちは善き人と呼ぶ*

 

だから

ただの隠者は

善き人でも悪しき人でもないことになる

 

なぜならば

彼は

みずからを分かち与えることもしなければ

役に立つわけでもないから

最も多くを分かち与えることができるのは

神である*

 

これはシラ書第五十章第六節と第七節を引用して

知性と意志とについて述べられた説教に見られる見解だが

この説教には

三つの言葉についての

興味深い見解も述べられている

 

創造された言葉というものがある

それは天使であり

人間であり

被造物のすべてである

 

これとは別の言葉がある

思惟され

述べられ

それによって

わたしが何かを思い描くことが可能となる言葉

 

しかし

さらに別の言葉がある

この言葉は述べられることがない

思惟されることもない

けっして外へ踏み出ることがない

むしろ逆に

語る者の内に永遠にとどまる

それは語る父の内にあり

絶えず受け取られ

そして内にとどまり続ける

 

知性は

いつも内に向って働く

何であれ

より繊細に

より精神的になるにつれて

いっそう力強く内に向って働く

知性が力強く繊細になるほど

知性が認識するものもますます強く知性と合一し

ひとつとなる

 

しかし

物質的事物ではそうはいかない

物質的なものが力強くなればなるほど

それらはますます外に向って働く

 

神の浄福は

知性が内に向って働くことのうちにある

その際「言葉」は内にとどまったままである

自分自身のうちに漂うこの認識の中で魂の浄福を造り出すためには

魂はそこでひとつの「譬え言葉」でなければならない

神とともに一なるわざを働かなければならない

神が浄福であるその同じ認識の内にあり続けながら*

 

非表現や反表現を

時どき呟きたくなる人びとの思いを代弁した

みごとな説教というべきだろう

エックハルトはすでに13世紀から14世紀に

これを語っている

 

述べられることがない言葉

思惟されることもない言葉

けっして外へ踏み出ることがない言葉

語る者の内に永遠にとどまり

語る父の内にあり

絶えず受け取られ

内にとどまり続ける言葉に

霊の目や口や耳を向け続けて

人界は言葉少なに通過していこうとする人びとに

わずかでも

この書きつけが届くことを

 

 

 

 

*マイスター・エックハルトからの引用は、田島照久編訳『エックハルト説教集』(岩波文庫)によりながら、適宜書き換えてある。






受けとり手のない思い出が

 

 

受けとり手のない思い出が
野山に
街に
たぶん

木霊して
澄んでいくばかり

午後の
なんと主語のない
あかるさ!

自転車を
もう一度買う必要が
ある?
引っ越して

あのあたりに
棲もうとするなら

縁もない
と思っていた
物の怪のようなものに
しだいに
なってきても
いたから

記す文字の
どれにも
宛先はないのに
昼顔が

やわらかく絡まった金網の

ところで
立ち止まり

ちょっと汗を拭うと

贅沢に
おお、贅沢に流れる時!


初蝉は

まるで古代ローマの頃のラテン語で
誤りなく滴らせるよ
夏の血液を